「あなたの家を岩の上に立てる」エリック・ジョンソン Building Your House on a Rock - Eric Johnson







Building Your House on a Rock - Eric Johnson JAPANESE INTERPRETATION
同時通訳:相馬伸子 

マタイ7:24〜29 

私は初めて4週間、1ヶ月の休暇、安息休暇を取りました。
その時には曜日を忘れるくらい、日常から離れて、家にはいましたが、でかけたところは、ホームセンターぐらいです。
長女を今年夏にメキシコの牧場での奉仕のキャンプに送り出しました。彼女を送る時も、迎える時にも泣きましたよ。
その時にわかったことは、自分がなんて豊かな男であるのかと言うことでした。娘たちは深く愛し合っていて、妻と僕もそうです。
このような関係を持てることは豊かです、富んでいます。

このように日常と離れて暮らすと心の中の普段は考えない事柄が浮かんできますね。今日はその話もします。
マタイ7章24〜27のメッセージは山上の説教の最後の部分です。
「この教えを聞き、行うものは岩の上に自分の家を立てる」また、「聞いても行わないものは砂の上に家を立てる」ものだと言われています。
「家」「砂」「岩」「天候」が重要な例えですね。家を建てますが、天候という力で壊れたり、それでも残ったり。
家とは「自分の人生、次の世代」であり「砂は〜今はもう無い物」「岩はゆり動か無い、しっかしと動かされ無い」「天候ー人生の出来事」。
あなたの人生をあなたがどこに建設しているか、気にしていても、しなくても、または大した事していないので、建設してい無いといっても、本当は建てているのです。
あなたの人生は「目的」「使命」があります、あなたの人生は「他の誰かに影響を与えます」。「自分の人生には全く影響力がない」という考えはひどい嘘です。
自分の事を話すならば、過去4週間で示された事があります、砂の上に城を建ててしまっていた事です。それは、自分の価値を自分がキリストにあるアイデンティティーではなく、仕事から得てしまっていた事です。ですから自分の過去数年のジェットコースターのような上がり下がりがあったとわかりました。
私達はよく、自分の心地よい「過去の砂」に家を建てる事もあります、変化を嫌うのです。でも神様は私達のように時間に束縛されず、同じように考えません。忍耐そのものです。
もし。砂の上に城を建ててしまっている事が「天候 人生のチャレンジ、危機」によって示されたら、それも感謝ですよ、後にそれがわかる方が大変です。


ベテル教会の英語のPODCASTの同時通訳:相馬伸子 © Bethel Church, 933 College View Drive, CA 96003 Tel. 530-246-6000 Interpretation by Nobuko Soma http://www.onfire.jp 



「恐れの奴隷でなく」、「主は全てを受けるべき方」日本語 No Longer Slaves & Worthy of it All - JAPANESE

新しい賛美、2曲を紹介します。
歌と伴奏はイマイチ(歌詞の間違いも少しあるし😉!)ですが、心は100%です!
どうぞ、主の臨在を楽しみながら、一緒に賛美しましょう。
どちらも、歌いやすい、弾きやすい曲です。どうぞ、下記の歌詞とコードを使って、歌ってみてください。

Ok, so the music and singing leaves a little to be desired (complete with mistakes and mis-chords!) but our hearts are 100% set towards the Lord! Here are two songs that we particularly enjoy --- we have provided chords and Japanese lyrics below so please sing along in His presence.

「恐れの奴隷でなく」No Longer Slaves - JAPANESE 




D
主の歌で解き放ち
Shu no uta de tokihanachi

       G    A   D
わたしを包む
Watashi o tsutsumu

D
敵からも救い出し
Teki kara mo sukuidashi

   G        A    D
恐れ、消え去る
Osore, kiesaru

CHORUS

   G      A       D
恐れの奴隷でなく
Osore no dorei de naku

G    A    D
神のこども
Kami no kodomo

VERSE 2
D
初めから召し出され
Hajime kara meshi dasare

    G    A   D
名で呼ばれた
Na de yobareta

D
イエスの血で買い取られ
Iesu no chi de kai torare

 G    A   D
神の家族
Kami no kazoku


BRIDGE

Bm  A        D     G
海を分ち、道を作り
Umi o wakachi michi o tsukuri

Bm  A             D     G
恐れを愛で、消し去る
Osore o ai de keshi saru

Bm  A                D        G
救いを受けて、さあ、歌おう
Sukui o ukete saa utao

G    A     D
神の子ども
Kami no kodomo


「主は全てを受けるべき方」 Worthy of It All - JAPANESE




VERSE

C         D
聖徒と天使
Seito to tenshi

     C       D
御座の前に
Miza no mae ni

C          D
長老と一緒に
Choro to issho ni

           C   D   G
神の小羊に歌う
Kami no kohitsuji ni utau

CHORUS

               G
主は全てを
Shu wa subete wo

                 D
受けるべき方
Ukeru beki kata

       C                  D
万物を、すべ治める
Banbutsu wo sube osameru

                 G
栄光をあなたへ
Eiko o anata e

「勇気の日」ビル・ジョンソン師 Day of Courage - Bill Johnson





Day of Courage - Bill Johnson JAPANESE INTERPRETATION
同時通訳:相馬伸子 

1サムエル14、詩篇67、イザヤ60

サウルの息子、ヨナタンは非常に優秀で、勇敢な戦士でした。
1サムエル14では、彼は自分と、道具持ち(戦士でないもの)の2人だけで、山の上の方のペリシテ人の陣地に向かいました。
そして、彼は「たぶん主が我々に味方してくださるだろう。大人数によるのであっても、少人数によるのであっても。主がお救いになるのに妨げになるものは何もない」という素晴らしい事を告白しています。このフレーズを覚えてください。これは「新しくされた思い」で考えているものです。
人は「数」「サイズ」「時間」によって、束縛され、心配しますが、神にはこれらは全く関係ないのですね。思いが新しくされる事から見えるしや、言える言葉です。
8節から10節でヨナタンのいう事、行う事は「人間的に考える軍事的作戦」としては全くおかしいのですが、神のやり方は、不思議です。聖歌隊を軍隊の前に出して、歌わせよという事と同じようにおかしいですね。しかし神のやり方は、違うというところです。
13節では「ヨナタンが登ったら、ペリシテ人はヨナタンの前に倒れ、道具持ちがその後から彼らを打ち殺した」とあります。素晴らしいですね。

21節には「それまでペリシテ人につき、彼らと一緒に陣営に登っていたヘブル人も転じて〜イスラエルの側につくようになった」とありますが、イスラエル人としてのアイデンティティーを捨て、人生の生き方、服装、言葉を「敵陣」のようにして、敵陣の中にいたユダヤ人がいたのです。
しかし、先のヨナタンと道具持ちの勇敢な物語を聞いた時に、彼らはイスラエルの側に戻ってきました。何かが変わったのです。勇敢なストーリーが解き放たれる時に変化を心の奥深くに起こすのです。
22節には「エフライムの山に隠れていた」イスラエル人もペリシテ人が逃げたと聞いて、彼らもまた戦いに加わったとあります。
勇敢な物語が、解き放たれる事で「山に隠れている」神様の働きにつながっていない、人々もそこから出て、戦いに加わったのです。

証しを聞く事は、そのような働きをします。
問題に対して、神の民が、神の言葉を解き放ち天がそれに答え、イエスの栄光が見えるようになるのです




ベテル教会の英語のPODCASTの同時通訳:相馬伸子 © Bethel Church, 933 College View Drive, CA 96003 Tel. 530-246-6000 Interpretation by Nobuko Soma http://www.onfire.jp 

「真の共同体を求めて探し回るのを辞めましょう!」ジェフ・リンスコット




ある興味深い見出しと短い記事を読みました。

「真の体(共同体、繋がる場所)を追い求めるのを辞めましょう。」というタイトルでした。

内容は、簡単に言いますと、どこかに完璧な人間関係、自分が所属するべき共同体があるはず!と言って、新しい場所を探し求めるのを辞めて、今、既に与えられている人々と一緒に、もっと深い関係を築く、それこそが真の共同体だという励ましの記事でした。

とても、考えさせられました。

教会の体、共同体は、まず、砕かれた人間の集まりです。
傷ついた人もいれば、いろいろな重荷を担いでいる人も居ます。そう言う人達が一緒に居ると、ぶつかること、傷つけあうことは、当たり前ですね。

ただ、その後、どうなりますか?

その関係に向き合う事をせず、逃げて、その人を避けますか?壁を造りますか?ある程度の距離を保てば、建前で付き合う事も簡単ですね?

それとも、7X77倍回 赦しあって、キリストに自分の痛み、恨み、妬みなどを委ねて、御霊にある一致を保ちますか?

完璧主義の社会の中で、自分の本音を相手に見せる事は難しいですね。
本心を見せたら、人はどう思う?
本当の自分のことを知ったら、人は拒絶するかもしれない。

最近、ある心理学者の講義を聞いて、本当に聖書の真理とそのままの話だったので、感動しました。

人間はみんな、幸せを感じる為に、深い、親密な人間関係を築く事が不可欠だと言う事を説いています。こころを開いて、つながり合う関係ですね。でも現実には、こころが開けない、自分の弱さをさらけ出してでも、本音を出して関係を築く事が出来ない人がとても多く、本当の深い絆を築く事は非常に難しいと言っています。
その心理学者本人も、研究の途中で、この真理に気づき、自分自身が弱さを人に見せれない性格だと言う事が分り、そのルーツを探ったりして行くうちに精神分裂症になりました。一年間の回復後に、研究を再開しました。

本当の絆を育むためには、自分の弱さを見せないといけない。しかし、こころを開いて、本音を出すためには、恥を捨てないといけない。本心を伝えたら、拒絶されるかもしれないという恐れを拭い捨てないと行けない。でも、育って来た環境や様々な状況の中で、恥や恐れを手放す事が出来ず、一生こころを開けない人達が居ます。配偶者にも、友人にも、家族にも。その人たちは、深い絆で結ばれた愛の信頼関係を築く事が出来ず、結局、傷ついたり、拒絶されたりを繰り返してしまいます。

彼女の研究結果によると、自分の弱さをさらけ出して、こころ開けれる人に共通している事は一点だと言います。彼らは、「自分は愛されている、受け入れられるに値する存在であるという自信」を持っている人だそうです。
つまり、愛されていることを自覚している人は、恥を捨てて、自分の弱さを見せることができる、それで他人が自分の事をどう思おうが恐れない、その結果、彼らは他人とさらに深い絆を育むことができます。

反対に言いますと、愛されている事が自覚出来ない人、自信の無い人、不安のある人は、こころを開いたら、拒絶されるかもしれないとの恐れを持っています。本当の自分を見せれない状態、いつも建前の強さ、うまく行っているように見せて、完璧主義などになり、深い絆はなかなか育めないのです。

じゃあ、その解決は?
一人一人が、天のお父さんの無条件、無限、そして完全な愛に満たされることです。
そして、その愛の中から、踏み出すこと。リスクをとること。

人に、自分の弱さを見せることです。
助けてください。
手伝ってください。
一緒に祈ってください。

特に、牧師やリーダー達が、このへりくだりの心をもつ必要がありますね。心から本音で語る事です。

傷つくことが増えるかもしれない、
裏切られる、拒絶されることもあるかもしれない。

しかし、こういう本音の人間関係を築かない限り、本当の聖霊様の一致と本当の教会の共同体にはなれません。

今週のチャレンジ、
祈って、聖霊様の導きによって、ひとりにでも、自分の心を開いてください。手伝いを求めてください。
「わたしは、あなたが必要です!」と言って、毎週でも、2人−3人で話し合いと祈り合いの時を持ってください。

そして、本当の聖徒の交わりの素晴らしさを味みてください!

WHY YOU SHOULD STOP SEARCHING FOR AUTHENTIC COMMUNITY

I was inspired to write this short message in Japanese after reading this article.

It is an encouragement to stop looking for a “real” community and start building real community with those around you.

Every human being needs deep, open human relationships.
However, in our perfectionist societies it is difficult to be real with people.
If we show who we really are what will people think?
If people really knew me they might reject me!

What is the answer?
Firstly each and every person needs to be filled by the un-conditional, endless and perfect love of God!
And from that love we can step out to take risks in relationships, become vulnerable to 2 or 3 people and we will automatically build authentic community.

If we do not build these open relationships we cannot experience the true unity of the Spirit in the church community.

Check this great TED talk about vulnerability here: https://www.ted.com/talks/brene_brown_on_vulnerability?language=ja 

FOR THOSE WHO LOVE JAPAN!
Many people live IN community but not PART of community --- in the sense that their woundedness, pride or unwillingness to be open stops them from going deeper.
Please pray with us for the healing love of the Father to sweep over the Church in Japan --- to bring people to deep connection and community where they are.

「全てのクリスチャンは、献身者です!」ジェフ・リンスコット





素晴らしいメッセージを紹介します。
「神と共に働く者」ポール・マンワリング氏によるメッセージですが、私たち皆、神様のためにだけでなく、神様と共に働く特権が与えられています。
(下記のリンクを参考にしてください。)

普通は、「献身者」と聞いたら神学校へ行った人を考えますが、ローマ12:1によると、私たちは皆、自分の身体を捧げるのが、普通のクリスチャンとしての礼拝です。神様への愛の表現です。

「あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。」ローマ12:1

自分の身体を捧げることとは、具体的に、どういう意味ですか?
あなたの身体に関する全てのことを神様に委ねることですね。
また、霊、魂、身体を分けることはできないので、その意味は、人生に関わる全ての領域を主に捧げることです。

私たちの時間、過去、現在と将来
私たちのお金と持ち物は、もちろん。
私たちの身体、健康、賜物、能力、才能もすべて主に捧げる。
私たちの思い、意思、将来の夢、感情、態度、喜び、悲しみ、やりたいこと、やりたくないことも、主に捧げる。
私たちの家族、友人、人間関係;将来結婚するか結婚しないか、そのすべても主に捧げる

特に一般の職業についている人を励ましたいと思います:

昔から教会で勤める人、牧師、神父の階級と、一般職業のクリスチャンを分けてきました。献身者と一般信者。
しかし、聖書はそのように、人を分けていません!

あなたは、学生、主婦、無職、誰かの介護中であっても、一緒です!
牧師、教師、アルバイト生、会社の社長であっても、一緒です。

あなた自身に与えられた賜物、才能と時間を忠実に主に捧げるだけです。
(これこそ、タラント与えられたしもべの例え話の意味ですね。マタイ 25:14-30)

「何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心からしなさい。」
コロサイ 3:23

時間のある人は、ぜひ「神と共に働く者」ポール・マンワリング氏のメッセージ を聞いてください。


Introducing Paul Manwaring - Co-labouring With God message

9月22日(祝)ワーシップダンス・ワークショップ Worship Dance Workshop - Sept. 22


沖縄、神戸で行われたホームカミングギャザリングから始まり、神にあって解放されたダンサ ーたちは、日本において、さらに主の臨在をもてなし、主の栄光が現されるために用いられることを願っています。

私たちはこの夏、Davids Of The Tabernacleという名前のダンス・グループを立ち上げるように導かれ、自分たちの体験した恵みを、日本の各地で分かち合い、共に励ましあって成長するためのワークショップを定期的に行っています。

9月は、関西の西宮市で、ダンスワークショップを行います。

以前にギャザリングにダンサーとして参加された方はもちろん、ダンスの経験はないけれど、神の前で踊りをもって礼拝、賛美したい方、ダンスの経験はあるけれど、どのように神の前で踊ってよいかわからない方、ぜひ主に祈って、導かれたらご参加ください。対象者は14歳以上です。

<日時とスケジュール>
2016年9月22日( 祝)
セッション1 13:00~13:50 (動きのセッション)
休憩 
セッション2 14:00~14:50 (解放と一致のセッション)
休憩
セッション3 15:00~16:00  (創造のセッション)

<必要なもの>
☆動きやすい服装、上履き用ランニングシューズ、飲みもの、タオルをお持ち下さい。

<場所>
西宮市立勤労青少年ホーム、4階、小体育室
西宮市松原町2-37 電話 0798-35-5286
地図 GOOGLE MAP

阪神西宮駅から東に徒歩 7分、JR西ノ宮駅から南西に徒歩 7
駐車場はありますが、満車の場合が多いので、西宮市役所の駐車場、または近くにあるタイムズなどをご利用ください。

☆レッスン代はドネーション(献金)となります。


<主催>
Davids Of The Tabernacle 代表 兵庫江美
(予約&お問合せ)

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Worship Dance Workshop - Sept. 22
Ever since the Homecoming Gatherings in Okinawa and Kobe more and more people are being released in dance to worship and release the glory of God.
This past summer Emi Hyogo felt led to begin a dance ministry, Davids of the Tabernacle, to gather together to share from her own experience and the grace of God the blessing of dance through regular workshops all over Japan.
On September 22nd she will hold a seminar in Nishinomiya, Kansai.
You do not have to be experienced in dance, but just open to dancing and worshipping before the Lord in freedom. The workshop is open to anyone 14 years or older;

Date and Time
September 22, 2016 - (Thursday, Public holiday)
Session 1 - 1:00pm ~ 1:50pm - Movement
Break
Session 2 - 2:00pm ~ 2:50pm - Freedom and Unity
Break
Session 3 - 3:00pm ~ 4:00pm - Creation
Donations accepted for the Lesson fee.

What you Need:
Please wear easy-to-move clothing, indoor shoes (sports shoes for use indoors only etc.), a drink and a towel.

Location
Kinro Kaikan - Youth Home - Small Exercise Room 4F
Nishinomiya City Workers’ Union Building - Youth Building is on the NORTH side of parking
2-37 Matsubara-cho, Nishinomiya
Please check the map here: GOOGLE MAP

Access by car: Car park available, but if it is full then please use the Nishinomiya City Hall parking lot;
Access by train: 7 minutes walk east from Hanshin Nishinomiya Station 7 minutes walk to the southwest from JR Nishinomiya

Sponsor
Emi Hyogo of “Davids Of The Tabernacle”
emihyogo@yahoo.co.jp

「罪からの解放2:イエス様は我らの豚小屋にもおられる!」ジェフ&綾・リンスコット





実は、私たちにとって、豚小屋がもはや存在していません。
しかし、多くの人は、自分の思いの中、そして、自分の現実の中に豚小屋に生きています。
悪夢に比べたら、わかりやすい。
悪夢は、妄想です。本当の現実ではありません。しかし、悪夢の只中にいる人にとっては、本当に怖い、本当に最悪の現実のようなことを経験しています。しかし、その人が目覚めたら、悪夢だとわかったら、ほっとして、喜びます。
起き上がって目覚めた現実は、悪夢の現実にはるかに勝ります。

だからこそ、パウロの戒めは:「心の一新によって自分の思いを変えなさい。」

この素晴らしい証でわかりやすいです:

ある男の人は、パニック障害で苦しんでいました。
精神的な恐れが襲ってきて、本当に怖くなり、痙攣が起こり、真っ暗の穴に落ちるように感じて、最悪の状態に陥られる。
いつ次の痙攣が始まるか分からないので、ずっと不安と恐怖を感じて生きてきました。

クリスチャンの友人にそのことを話したときに、友人が提案をしました。
今度痙攣が起こりそうになるときに、まず、安全を確保して、痙攣がくることを拒まないでください。非常に怖いことですが、痙攣がくることを許して、精神的に、その真っ暗の穴のどん底まで、一番下まで落ちてください。
一番どん底の所についたら、周りを見てください。
あなたの周りには、イエス様がいるはずです。そのことに気づいてください。

男の人はそのアドバイスを受けとって、帰りました。
次、車を運転していた時に、痙攣が起こりそうになり、車を道路わきに駐車して、安全を確保しました。そして、抵抗しないで、痙攣がくることを許しました。
友人が言ったように、彼がその真っ暗の怖いところに陥れられたとき、回りを探しました。
なんと、イエス様が共におられました。
その啓示によって、彼はパニック障害から癒されました。

みなさん、神様は、あなたが自分の弱さから逃げるように、導いてはおられません。
また、あなたの感情を否定したり、ないように無視するようにも望んでおられません。
あなたが真っ暗の穴のどん底にいるとき、あなたと一緒にいたいと願っておられます。

それが、例えば自分の罪による穴であっても、または、人から受けたトラウマや虐待、傷、拒絶などによって、おとし入れられた穴であっても、一緒です。

イエス様は「捕らわれ人には解放を、囚人には釈放を告げるために、来られました。」イザヤ 61:1
捕らわれ人は、他人の罪によって捕らわれている人。
囚人は、自分の罪によって捕らわれている人。
どちらにも、解放がありますよ!

まず、安全な場所を確保しましょう。
  1. 今、安全で、自分がありのままになれる、また、感情的になっても大丈夫な場所を確保してください。自分の部屋が良いでしょう。パソコンや電話など、急に音が鳴るようなものも、消しましょう。
  2. 聖霊様を招きます。
  3. 聖霊様に、今日は何を取り扱ってくださるか、と尋ねてみましょう。
  4. 今、その「穴」に連れていってください。その時の感情、気持ちなどを否定しないで、感じれるように、思い出して下さい。主にゆだねてください。
  5. ある思い出、場所、人、神様にしめしていただきましょう。必要なら、ノートを取ってください。
  6. その穴に着いたら、そこでイエス様をシーンの中にお迎えして下さい。ご自分の口でイエス様をよんでみてください。「イエス様、今、あなたをこのシーンにお迎えします。」
  7. そして、イエス様を探して下さい。思いの中で360度見回して下さい。イエス様が人の姿で見える方、光のように見える方、見えないけど間隔で分る方。色々な方法で主がご自身を表されます。それに目を留めて下さい。
  8. イエス様、今、その場所でこの方が必要としている真理を教えてください。あなたが、今日、この人に見せたい事を見せて下さい。

ぜひ、このプロセスをとおして、解放と救いを経験した人、ぜひ、続けてその自由の中に、歩んでください。

「罪からの解放1:なぜ豚小屋に留まるのか?」ジェフ・リンスコット





愛に溢れるお父さんは、放蕩してきた息子の悔い改めの演説の途中、そのまま、彼を受けいれます。
新しい服、新しい靴、新しい指輪を彼にあげて、彼を宴会に連れて入ります。

勘違いしないでくださいね。
悔い改めが不必要なのではなく、本当の悔い改め、メタノイア - 向き直し、考えを変えることが欠かせないことです。
信仰生活は、心の一新によって思いを毎日変えていく旅です。
「毎日新たにされています。」2コリント 4:16
しかし、自分の悲しみや、悔いる気持ちによって、なんとか神様の好意をいただこうと思っているクリスチャンは、自分の過去の罪、失敗、自分がどれほど悪かったか、また自分が罪人だというアイデンティティを常に覚えておかないといけないと思っています。
これは、本来の悔い改めとは違います。

自分の失敗を悲しみ、泣いてもいいですが、そこに留まってはいけません。
主はあなたの嘆きを喜びに変えてくださいます。
あなたの涙が喜びの涙になるはずです。
あなたの叫びは、感謝と賛美の叫びであるはずです。
「夕暮れには涙が宿っても、朝明けには喜びの叫びがある。」詩篇 30:5
悲しみは、一瞬、喜びは、一生!

じゃあ!罪を犯してもいいですか?罪はどうでもいいですか?
パウロが言ったように、言います:「絶対にそんなことはありません。」ローマ 6:15

この話の大きなキーポイントは、罪、つまり神様の目的から離れた行動をすれば、待っているのは豚小屋だということです。

お父さんが怒るとか、神様からのばちが当たるのではなく、あなたが、自分の選択の結果、その摘み取りとして豚小屋の中で苦しむということです。
せっかくの宴会のごちそうも食べれません。罪を犯すのは愚かなことです。もったいない!

前回言ったように、豚小屋自体は、神様の怒りと同時に、神様の愛の表れです。帰っておいでの招待状です。

ローマ1章:神様は、彼らを良くない思い、良くない行動に引き渡されました。
同じように、お父さんは、息子を彼の好き放題なことができるよう、そしてその報いを彼が味わう事を許し、明け渡しました。

「罪を犯すと、神様に怒られますよ!」ということを聞いたことがありますか?

これこそ、人間的な視野で、幼い考え方です。
パウロが言いました:愛は怒らず。
神は愛、そのものです。じゃあ、愛して下さっている天のお父さんは本当に、人間のように、怒りますか?

神様の心、その怒りも明確に見せてくださったイエス様を見ましょう。
イエス様が一番怒ったのは、何ですか?誰に対してですか?
罪人の行動に対してですか?違います。

偽善な宗教者に対して。
神様の御言葉を持っているのに、御言葉によって生きていない人に対して。
知っているはずのに、その知恵によって生きていない人々です。
イエス様は、罪人に対して、決して怒りませんでした。

キリストにある人よ。クリスチャンたちに言います:

神様は、もはやあなたの罪に注目していません。
言い過ぎですか?
言い過ぎではないと思います。神様が注目しているのは、あなたがキリストのように変えられていく、成長することです。
罪は、それを邪魔するものだけです。
「こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか。」ヘブル 12:1
要点は、罪に注目することではなく、生きる目的を邪魔することを捨てるのです。そして、前に置かれているその目的、神様の子供としてのアイデンティティにひたすら歩むことです。

「でも、あなたが罪を犯すと、神様は悲しむ。」

そうですよ。でも、それは、自分のことを認めない人間に対して、拗ねて悲しんでいるのではなく、せっかく、すばらしい宴会を用意しているのに、子供がドロドロの豚小屋に眠っているのが悲しいのです。
私も、父親として、子供が僕の言うことを聞かなかったら、人間のように拗ねることもできます。それは、愛の浅い、人間的、幼稚なお父さんではないでしょうか?
僕も、そうなったことがあります!

でも、子供が私のいうことを聞かないで、怪我をして傷ついたり、大切なものや、将来の素晴らしい機会を失うなら、もちろん、子供のために、悲しみます。

人の罪は、自分に害を与えます。なぜなら、神様の本来の目的から離れているからです。
全ての罪は、種のようなものです。必ず実を結びます。その実がすぐならなくても、時になると実になります。
罪を行う人は、罪の奴隷です。罪人、罪の奴隷のアイデンティティに属しています。

罪は、死を生む。
今、現在の死です。
現在の人間関係の中の死。
現在の心の状態、思い、体にある死。
その死がすぐ見えなくても、いつか、どこかで、その結果がでます。

この「死」というのは、今、生きている間の死です。
そして、クリスチャンも、その死、放蕩息子の豚小屋にとどまることもできますよ!
クリスチャンになっても、死の結果がありますよ。
ただ、罪に誘惑される時に、毎回、毎回、脱出の道も用意されています。
豚小屋に留まる必要はありません!

一つの証と同時に励ましを分かち合います。

ある若いクリスチャンの男性がポルノ中毒で苦しんでいました。
辞めようと思っても、辞められない状態で、罪の束縛からなかなか自由になることができませんでした。

ある日、夢を見ました。
牢獄にいて、オレンジ色の制服を着て、手には手枷、足にも足枷がつけられ、縛られている状態でした。彼は刑務所の食堂にいて、給食のトレーをもって、テーブルの間に歩き、食事をする場所を探しました。
突然、イエス様が見えました。同じ、オレンジ色の制服を着て、同じように給食のトレーを持ち、座る場所を探していました。
しかし、イエス様には、手枷、足枷はありませんでした。
若い男性がイエス様に声をかけて、「イエス様、一緒に食事をしませんか?」と訪ねたら、イエス様は、にっこりして「もちろん!」と返事をしました。二人が座って、食事をして、会話をしました。
若い男性が、食事中に、あまりにも嬉しくて、「イエス様、毎日このように一緒に食事をしてもいいですか?」と聞くと
「もちろん、いつでも一緒に食事をしましょう。」とイエスが返事しました。
そして、身を寄せて、イエス様が彼に言いました:「いつでも一緒に食事をしてもいいですよ。でも、知っているかな。牢獄の扉は、空いていますよ。」
男性は夢からさめました。

牢獄の扉は、空いていますよ。
イエス様があなたと一緒に、その豚小屋の只中におられる。
しかし、その扉が空いていますよ。


キリストにあって、皆新しく生まれ変わったものです。
罪人のアイデンティティから、神様の子供のアイデンティティにかわりました。
豚小屋に留まる選択もあります。
牢獄に留まる選択は、あなた次第です。
でも、扉は開いています。

お父さんのもとへ帰る道は明らかです。

このメッセージを聞いて、まだまだ豚小屋に留まっているように感じる人、一緒に祈りませんか?よかったら、今祈りましょう!
・今、私は牢獄の中で苦しんでいます。イエス様、あなたは、その中で一緒におられますか?だとしたら、どこにおられますか?その中で、何を語っておられますか?・子とされている新しいアイデンティティについて、新しい啓示を受け取ります。見せて下さい。・豚小屋にこれ以上いるのはもう十分です。脱出の道を教えてください。具体的にどうやって父のもとへ帰れるのか、その道を示して下さい。



「悔い改めの演説を辞めましょう。」ジェフ・リンスコット





放蕩息子のたとえ話(愛に溢れるお父さんの物語)ルカ 15:11-32

続けて、放蕩息子の物語、愛の溢れるお父さんの物語を見ながら、真の福音を見ましょう。
前回言いましたが、この話の中には、神の怒り、和解、悔い改めや向き直し、赦し、救い、清め、愛もすべて見えます。

世界の人々は皆、この話のどこかにいます。

あなたは、どこにいますか?

お父さんのために、勤勉に働いているお兄さんですか?
イライラして、逃げて、放蕩したいと思っている弟ですか?
放蕩している最中の弟ですか?
放蕩してから、豚小屋にいますか?
豚小屋にいて、自分はどれほど愚かか、目覚めていますか?
お父さんの家に戻ろうと決めて、お詫びの言葉を練習していますか?
お父さんに抱き絞めてもらったところですか?
宴会の外に立って、弟のことを妬んで(ねたんで)いる、お兄さんですか?

あなたは、どこにいても、行先、目的地は一つだけです。
宴会です!屠られた子牛、イエス様の宴会のごちそうをいただくことです。

全人類はこの話の中にいます。
クリスチャンの皆さんも、この話の中にいますが、皆がいるべきところにいるわけではありません!

多くは、まだ豚小屋にいて、自分の悔い改めの言葉、演説を練習している。
毎日、練習しています。
どうか、神様
1回だけではなく、毎日のように、自分の失敗と罪の生活の思いに戻って、繰り返して、繰り返して、悔いることによって、なんとかして、天のお父さんに受け入れられるように、頑張っています。

皆さん、福音があります。グッドニュースです!
あなたの罪は赦されています!
あなたがその罪を犯す前から、あらかじめ赦されていたんですよ。
向き直して、その罪の聖めと解放、自由、喜びを経験して下さい!
もはや、罪のくびきを背負わなくてもいいです。

覚えてください。
豚小屋にいる弟は、囚われていない。
自由です。
我に戻って、さあ、お父さんの家に帰ろうと気付いたら、帰れました。
修行は入りません。努力も入りません。
心の一新だけですね。自分の本来のアイデンティティに戻るだけです。

常に悔い改めている人は、キリストではなく、自分の行動に信仰を置いています。

自分の本当のアイデンティティをわからない、不安なので、
「もしかしたら、昨日罪を犯しました。もしかしたら、救いを失ったかもしれない!もう一度悔い改めないと地獄にいく!あ〜〜〜!どうか神様、赦してください。どうか、どうか、どうか。」

皆さん、この「悔い改め」は、本来の意味と違います。
本来の意味は、向き直して、反対側から見る。
違う思いを持つ。自分から目を離して、イエス様に目を留めます。

この偽りの悔改めは、自分の失敗や罪、欠点を常に見て、自分の悔いる程度によって、神様に受け入れられることを信じること。
もっと悲しんで、もっと涙を流して、もっと叫び泣き、もっと後悔する気持ちをもったら、もっと神様に受け入れられるのでしょうか。
全部、自分中心、自分の行い中心です。

皆さん、あなたは、自分の悔い改めによって、救われるのではありません。向き直すことによって、救われた、赦されたことを経験するのです。

毎日、毎週、このような悔い改めの祈りをしているクリスチャンは、豚小屋に留まっている弟のようです。

もちろん、自分の行動が悪かった、罪だった、失敗だった、と認めることは大事です。
その失敗のために、後悔して泣いてもいいです。

しかし、本当の向き直すことは、弟が立ち上がって、お父さんの家に戻った時です。
自分の後悔にとどまったことではありません。

どうぞ、涙を流してください。
しかし、あなたの涙は、後悔の涙ではなく、喜びの涙であるはずです。
どうぞ、叫びたい人は、叫んでください。
しかし、あなたの叫びは、「どうか、主よ、赦してください!」の後悔の叫びではなく、喜びの叫びであるはずです。

豚小屋にいる弟を考えましょう。
ルカ 15章にありますが、部分的に見ましょう。(ルカ 15:14-22)

飢饉によって、弟は食べるにも困り始めた。豚小屋に働き始め、豚のえさを食べたくなってきた。
しかし、我に返ったとき彼は、こう言った。『父のところには、パンのあり余っている雇い人が大ぜいいるではないか。それなのに、私はここで、飢え死にしそうだ。立って、父のところに行って、こう言おう。「お父さん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。雇い人のひとりにしてください。」』ルカ 15:17-19
そうです。弟は、何の資格もありません。
私たちも、赦される、清められる、受け入れられる資格は一つもありません。
なので、イエス様が全部してくださいました!
私たちの資格は、イエス様ご自身です。
「こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとに行った。ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした。息子は言った。『お父さん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。』ところが父親は、しもべたちに言った。『急いで一番良い着物を持って来て、この子に着せなさい。それから、手に指輪をはめさせ、足にくつをはかせなさい。そして肥えた子牛を引いて来てほふりなさい。食べて祝おうではないか。この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだから。』そして彼らは祝宴を始めた。」ルカ 15:20-24
お父さんは、息子の悔い改めの演説を聞いてもいません。
途中で、お父さんは、しもべたちを呼びました。彼を宴会につれてはいりました。

皆さん、これは大きいですね。
なかなか罪を止められないクリスチャン、ここで葛藤のある人は多いです。

豚小屋に留まり、悔い改めの演説を毎日練習しています。

実際に、我に戻り、本来のアイデンティティに戻らずに、宗教の掟や規定を守りながら、自分中心の信仰生活をしているではないでしょうか?

どうすればいいですか?

このことで、ピンとくる人、こういう悔い改めの悪循環に縛られている人にチャレンジします。
一ヶ月、悔い改めの祈りを辞めてみてください。

代わりに、このように、祈ってみてください。
• 天のお父さん、あなたの愛を感謝します。• イエス様の愛、十字架と復活に目を留めます。• あなたはすでに私の罪を赦して、清めてくださったこと、ありがとうございます。• 過去の罪、現在の罪、将来の罪も全て、赦されて、清められています。感謝します。• あなたからの新しい服、新しい靴、指輪、ありがとうございました。いただきます。• あなたの宴会に入り、楽しみます。イエス様ご自身を食べます。イエス様のぶどう酒を飲みます。• あなたの愛、喜びと平安に浴びます。• 私の全てをあなたに委ねます!

「人の内に神の栄光を見つけ出す」ジェフ・リンスコット







イエス様を通して、天のお父さんの心がはっきり見えます。
「わたしを見た者は、父を見たのです。」ヨハネ 14:9
とイエス様は言われました。
「また、父はだれをもさばかず、すべてのさばきを子にゆだねられました。」ヨハネ 5:22 
しかし、イエス様は、自分についてこう言われました:
「わたしは世をさばくために来たのではなく、世を救うために来たからです。」ヨハネ 12:47

父なる神様と子なる神様の間の陰謀です!
人を裁くのではなく、救うための陰謀です。あなたも、わたしも、全世界の人々は、その恩恵をいただけます。

ヨハネ8章には、パリサイ人が、姦淫の罪に捕らえられた女の人をイエス様のところに連れて来ました。

イエス様は最後に彼女に言われました:
「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今後はもう罪を犯さないように。」ヨハネ 8:11
あなたの罪の道を離れなさい、ということですね。

マタイ9章にある、友人に運ばれた中風の人の話。
「イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に、『あなたの罪は赦された』と言われた。」マタイ 9:2 
と言われました。

気づいていただきたいことは、姦淫の罪の女の人でも、中風の人でも、何も言わず、何も頼んでいないのに、イエス様は彼らの罪を赦されました。

ルカ19章にある、収税人のザアカイの話で、イエス様は、彼の罪のことを何も言わなかったのに、一緒に食事して交わることだけで、ザアカイは、自ら罪の道を捨てて、
向き直し、イエス様についていくようになりました。

次は、福音書にあるわたしの一番好きな物語、放蕩息子のたとえ話です。

この話しの本当の主人公は、放蕩息子ではありません。これは、愛に溢れるお父さんの話です!
そして、私たち人間は皆、この話の中の登場人物です。世界の全人類が、この話の誰かに当てはまります。
皆さんは、誰に当たるでしょう?

この物語をベースにして、「人の内に神の栄光を見つけ出す」ことについて考えましょう。

まず、全ての人は、神様の似姿に作られ、神様の子供、神様の栄光のために選ばれた者です。
この話の中には、神の怒り、和解、悔い改めや向き直し、赦し、救い、清め、愛もすべて描かれています。

私たちクリスチャンはよく隔ての壁を作ります。
中と外。クリスチャンとノンクリスチャン。

しかし、イエス様は隔ての壁を壊すために来られました。(エペソ 2:13-16 )

私たち人間は人の違いを強調しますが、神様は、人間の行動や罪による違いに目を止められません。
「何の差別もありません。すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められたのです。」ローマ 3:22-24
以前言ったことがありますが、初めから終わりまで、弟も、お兄さんも、お父さんの子供です。本人が気づいても、気づかなくても、これは真理です。

問題、壁は全部、弟とお兄さんが作ったものです。初めからお父さんからの壁はありません。
神様に対する敵対心は、私達人間が作ったものです。神様からのものではありません。

この物語の中に、神様の怒りがはっきり見えます。
どこですか?
お父さんが、弟に大お金を渡して、手放して、旅に出したのは神様の怒りです。弟が快楽と放蕩に走ったが、ついに豚小屋の地獄にたどり着きます。これこそ、神様の怒りです。
自分の決断に対するふさわしい報い、結果を味わうということです。
ローマ1章にあるように、神様は、彼らを良くない思い、良くない行動に引き渡されました。
これこそ、神様の怒りです。

そして、神様の怒りは神様の愛の一面です。常に、子供がお父さんの家に戻るための招きです。
捌きと、子供を追い出す、見捨てるようなものではありません。人間のようなガンガン怒る怒りではありません。
子供が戻ってきて、お父さんの豊かな愛の中に帰ってくる為の招待状です。

この物語の中、神様の和解はどこですか?
初めから終わりまでです。
というのは、神様との和解は、私たちにかかっているのではく、キリストにかかっているのです。和解は、お父さんのこの言葉にあります:
「子よ。おまえはいつも私といっしょにいる。私のものは、全部おまえのものだ。」ルカ 15:31 
あなたの未信者の親戚、家族、友人、同僚は、いつ神様と和解されますか?
2000年前に、イエス・キリストの十字架によって、すでに和解されています!

話の最後に、宴会のために、肥えた子牛、イエス様が生贄となりますが、実は、イエス様は、世の初めからほふられた小羊です。

弟が家を出る前に、放蕩する前に、豚小屋に入る前からも、お父さんは、彼を愛して、彼を罪の当然の報いを味わう事を分っていながら、それを許し、また彼を赦して、彼と和解をしました。
ただ、弟は、その赦しと和解を経験するためには、お父さんに戻る必要がありました。

皆さん、これこそ、福音です!グッドニュースです。
「すなわち、神は、キリストにあって、この世をご自分と和解させました。違反行為の責めを人々に負わせないで、和解のことばを私たちにゆだねられたのです。」2コリント 5:19
この物語の中、悔い改めはどこですか?
弟が自分の状況に目覚めて、我に戻った、と書いてあります。
気付いて欲しいことは、
悔いる気持ちは、大事ですが、神様を喜ばすためにではありません。
「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて、振り替えて、福音を信じなさい。」マルコ 1:15
向きなおして、見て下さい。あなたの罪はすでに赦さています!

どうやって、未信者の友人、親戚を見ればいいですか?
そのままですね。未信者、未だ信じない人だけです。
眠っているように、まだ、その現実に気付いていない人達です。
「眠っている人よ。目をさませ。死者の中から起き上がれ。そうすれば、キリストが、あなたを照らされる。」エペソ 5:14 
私たちがまったく一緒です。ただ、起き上がってキリストの光に照らされているだけです。

偉そうに、未信者との違いを強調して、隔ての壁を作るのではありません。

イエス様のように、この簡単なメッセージを伝えましょう:わたしは、あなたの罪を見ません。あなたを捌きません。
向きなおしてみて!あなたの罪はすでに赦さていること、を見てください!

今日の宿題です。この簡単なメッセージを誰かに伝えてみてください。
神様も、わたしもあなたのことを攻めません!
あなたの罪、失敗、傷はすでにもう赦されています。
信じますか?

素晴らしい一週間を迎えてください。