神様は二重人格ですか?「十字架の勘違い、パート2」


イエス様は、十字架の上で、神様に見捨てられなかったことを、前回紹介しました。
そのことによって、私たちも、絶対に、神様に見捨てられることはない、と確信を持つことができます。感謝ですね!
次のことは、似ていますが、少し違う角度から見てみたいと思います。

多くのクリスチャンは、神様、つまり天のお父さんとキリストは、十字架の上で、別れてしまったと思っています。
それだけではなく、地上を歩いている神様であるキリストは、天におられる神様と別の存在だと、多くのクリスチャンが何となく信じています。

また、旧約聖書の中には理解しにくい話が多くあります。
多くのクリスチャンは、はっきり言って、二重人格の神様を信じています。

旧約聖書に書かれている、怒りっぽい、人間をさばいて、人間を罰する神様と
新約聖書に書かれている、優しい、人を愛するイエス様。

それに加えて、多くの人は、怒りっぽい人間のお父さんのイメージに慣れていますので、天のお父さんも怒りっぽくて当然だと、密かに信じています。
そのために、天のお父さんとイエス様は、別々の存在ではないかと思って、神様の御性格に疑いを抱いています。

神様は、本当に良いお方なのか?本当に優しいお方ですか?近づいても大丈夫ですか?突然私のことを怒ったりすることはないですか?

神様は良いお方だと原則的に信じていますが、本当は少し疑いがあります。
怒りっぽいお父さんに近づきたいと思う子供が、どこにいるでしょうか?天のお父さんについての疑いを抱いたら、そのお父さんに近づかず、自分の思いと心の中、遠くからしか接することができません。

皆さんがもし、神様の本質についての疑問があれば、それを正直に認めてもいいですよ。

ただ、認めながら、御言葉を改めて見て、神様にその真理の道に導いていただきましょう。
クリスチャンの生活は、栄光から栄光へ。神様の素晴らしさの新しい啓示が私たち皆のために、待っています。
この十字架のメッセージを通して、あなたも私もどれほど天のお父さんに愛されているかをもっと知ることができるように祈っています。

神の本質の完全な現れ
素晴らしいニュースがあります。
ヘブル 1:3「御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れであり…」

キリストイエスは、神様、つまり天のお父さんも、聖霊様も、完全に示してくださいました。
旧約聖書の中で、この「奥義」は隠されていました。

コロサイ 1:26「これは、多くの世代にわたって隠されていて、いま神の聖徒たちに現された奥義なのです。」

キリストが来る前の人々は、この奥義が分からなかったのです。隠されていました。
しかし、この現された奥義は、何ですか?
キリストイエスを通して、神様の本当の御性格が現されました。

皆さん、理解していただきたいことは、天のお父さん、聖霊様、そして御子キリストの御性格は、まったく一緒です。
三位一体の神様です。家族のように、お父さん、お母さん、子どもの3人ですが、一つの家族です。
まったく同じ御性格です。

旧約聖書に書かれている神様に疑いを持って、新約聖書を読むなら、躓きます。
旧約聖書を新約聖書に現されたイエス様を通して見なければなりません。
ビルジョンソン師がよく言います:「イエスキリストは、完全な神学です。」
その通りです。

十字架の話に戻りましょう。
イエス様が十字架につけられた時に、天のお父さんは、どこにおられましたか?
遠くから見ておられたでしょうか?
愛を持って、近くからイエス様を見ておられたでしょうか?  
いいえ、イエス様の中におられました!

十字架の直前のイエス様の話を見てみましょう。
ヨハネ 10:30「わたしと父とは一つです。」
ヨハネ 14:11「わたしが父におり、父がわたしにおられるとわたしが言うのを信じなさい。」
ヨハネ 17:11 イエス様が天のお父さんに祈りました:「…わたしたちと同様に、彼らが一つとなるためです。」
続けてその同じの祈りの最後に:
ヨハネ 17:22 「わたしたちが一つであるように、彼らも一つであるためです。」

そうです。天のお父さんは、御霊を通して、イエス様の中におられました。
イエス様を見捨てたこともなく、背を向けたこともなく、近くから見ておられただけでもなく、天のお父さんは、キリストの中におられ、一緒に十字架の上につけられました。

また、2コリント5:19 「神はキリストにおいて世をご自分に和解させました。」(口語訳55年)
英語の聖書の、「キリストにおいて」は、「キリストの中におられて」と訳されています。

天のお父さんを旧約聖書の話を通して理解するのではなく、キリストを通して旧約聖書を理解するのです。
旧約聖書には、不思議な話が多くあります。
私たちは、たとえ理解し難いことが有ったとしても、それでも構わないと考えられる意識を持っても大丈夫なのです。

全てを綺麗に片付けることは、できません。
不思議なことが多い。理解しにくいことも多い。矛盾しているように見えることも多い。
私たちが、そのようなことに直面するとき、すぐ片付けるために、変な解釈、神様の御性格と決めつける神学などを抱いてはいけません。
こういう言い方は、どうですか?

旧約聖書では、神様はこれこれしました。このように言われました。なぜだか分かりません。
しかし、イエス様は、このことを示してくださいました。イエス様は、神様の本質を完全に見せてくださいました。
つまり、旧約聖書の言葉をイエス様のメガネを通して見ることです。

罪人は神様の敵?
これに関する勘違いですが、旧約聖書を通して多くの人は、罪人は、神様の「敵」だと信じています。
これをイエス様の目を通して見ると、別の角度から見えます。

それは、まず神様が私たちを敵として見るのではなく、私たちがイエス様と出会う前に、自分を神様の敵だと思ってしまうことです。

コロサイ1:21「あなたがたも、かつては悪い行いをして神から離れ、心の中で神に敵対していた。」

以前説明したように、私たちは神様から離れることができないのなら、どうしてここには、「離れている」、また「敵対している」と書いてあるのでしょうか?
この節の中に、書いてある「心の中」だからです。
神様から離れていること、捨てられたこと、神様に敵対していることは全部、人間の立場、人の視野からのことです。
被害妄想です!
しかし、妄想は大きいですよ。
多くの人は、妄想によって生きています。数十年前の経験から自分について、また神様についての嘘を信じて、その妄想によって自分の人生を定義している人が、非常に多いのです。
だからこそ、イエス様の「悔い改め、つまり向きを直す」メッセージは大事です。
神様とその御国は遠いのではなく、近いのです!

聖なる陰謀があります!

ヨハネ5章のイエス様の言葉を見ましょう:
19 「まことに、まことに、あなたがたに告げます。子は、父がしておられることを見て行う以外には、自分からは何事も行うことができません。父がなさることは何でも、子も同様に行うのです。」
皆さん、天のお父さん、イエス様は、一緒です!

21「父が死人を生かし、いのちをお与えになるように、子もまた、与えたいと思う者にいのちを与えます。」
昔からの神様の心は、命を与えることです!創造のときから変わりません!
天のお父さんの心は、イエス様と同じように、命を与えること、癒しを与えることです。
もし旧約聖書に書かれている、神様の命令による虐殺の話が理解できなかったら、それをしばらく横に置いてください。イエス様のメガネを通して、現された本質、その明確な神の愛と命に目を留めましょう。
今後も、旧約聖書の理解しにくい言葉を見るかも知れませんが、今日はもっと大事なこと、天のお父さんの明確な本質を正しく理解しましょう。

22「また、父はだれをもさばかずすべてのさばきを子にゆだねられました。」

じゃあ、イエス様には、すべての裁きが委ねられているなら、イエス様の裁きはどうなりますか?
ヨハネ 12:47「だれかが、わたしの言うことを聞いてそれを守らなくても、わたしはその人をさばきません。わたしは世をさばくために来たのではなく、世を救うために来たからです。」
ヨハネ 3:17「神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。」
え!?イエス様も、天のお父さんと同じように、もう人を裁きません!
どういうことですか?
裁きはもうないですか?
さばきの日はどうなりますか?
確実に、さばきの日はありますよ!しかし、その日はまだ来ていません。また、その裁きの日も、もしかしたら、私たちが考えている裁きと違うことだと思います。
「さばきの日」の意味を論争してもいいですが、今日は、恵みの日です!

次回、神様の怒りについて十字架を見てみましょう。
本当に神様の怒りが十字架につけられたイエス様に注がれたのでしょうか?

では、神様の恵みを楽しみながらこの一週間を過ごしてください。

「十字架の勘違い」パート1


今日は、十字架についてのいくつかの勘違いを見てみましょう。
十字架は、私達クリスチャンには、信仰の一番中心、一番美しいことであるべき、本当によく理解しなければならない事です。
今日からは、3回に分けて、神様の十字架の御業を見ましょう。

この話を通して、イエス様の十字架がどれほど素晴らしく、神様の愛はどれほど大きいのか、私たちがもっと理解できるように祈っています。
十字架の福音は、本当にそのまま、福、音:祝福の音、良い知らせ、グッドニュースだと確信が与えられますように。

まず、このような福音の伝え方を聞いたことがあるでしょうか?
私たち人間は、罪を犯しました。
神様は罪を見ることができず、神様は私たちを敵とみなし、私たちから離れてしまいました。
神様は、正義をもたらさなければならないので、裁判官のように、罪の罰を下さなければならない。
と同時に、神様は、私たちを愛してくださって、私たちのために、ご自分の御子キリストを送ってくださいました。
イエス様が、十字架につけられた時、私たちの罪を全部背負ってくださいました。
そのことによって、天のお父さんはご自分の息子、イエス様から背を向けられました。
神様ご自身が、私たちの上に下るべき天のお父さんの怒りが、変わりにイエス様の上に落ちました。
そのために、イエス様が死なれ、天のお父さんの怒りがなだめられました。

この話は、一部真理、一部勘違いです。
実は、この説は11世紀に広まって、刑罰代償説と言われ、現在のほとんどの福音派の教会が認める説ですが、その前の初代教会からほぼ1000年間の教会歴史の間では、信じてなかったことです。

この話を聞いて、そのまま受け入れた多くのクリスチャンは、神様について大きな疑問を抱いています。
今日は短く話しますが、皆さん、どうぞ今日の話の一つ一つのポイントを自分の聖書の学びの時、また小グループの時に、祈りながら、話し合って、調べてください。


1:「神様は、罪を見ることはできません。」
この考えは、ハバクク1:13 からきます。
預言者ハバククは、主に尋ねます:
「あなたの目はあまりきよくて、悪を見ず、労苦に目を留めることができないのでしょう。なぜ、裏切り者をながめておられるのですか。」

預言者は、混乱しています。
「神様!あなたは、聖いお方です。罪を見ることはできないでしょう!じゃあ、どうして罪人を見ておられますか?」

この御言葉の半分は、「神様は、悪を見ず、罪に目を留めることができない。」そのまま、よく間違えて引用されています。
しかし、その真理は何ですか?

神様は、罪人の友達、仲間、味方です。
ルカ7:34 
「また人の子がきて… 取税人や罪人の仲間だ…」

私たちが罪人の時から主が私たちを愛してくださいました。
ローマ 5:8
「しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。」

神様の完全な代表となるイエス様は、罪人と沢山の時間を過ごしました。
私たちが、まだ罪人の時に、神様が私たちを愛の目で見て、私たちを祝福しようとされました。
今でも、神様は未信者の友人、家族、知り合いの一人一人を愛の目で見て、祝福しようとしておられます。
また、私たちが今でも失敗して、罪を犯してしまったとしても、神様は目をそらすこともなく、離れることもなく、私たちがただ向き直して、その

素晴らしい恵みを受けるように、さらに続けて愛してくださっています。
みなさん、私たちも、未信者や罪人を神様の愛の目で見ていますか?

2:「イエス様は、十字架の上で、神様に見捨てられました。」
この勘違いは、イエス様の言葉に基づいています:
マルコ 15:34 
「そして、三時に、イエスは大声で、『エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ』と叫ばれた。それは訳すと『わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか』という意味である。」
その後すぐ、イエス様は、「完了した」と言われ、死なれました。(ヨハネ 19:30)

しかし、実はイエス様はここでは、詩篇22編の最初の節と最後の節を引用して、その詩篇全部を宣言しているという当時のユダヤ人の習慣にならって言われたのです。
 
詩篇 22:1 
「わが神、わが神。どうして、私をお見捨てになったのですか。」
そして、22編の最後の節:
31節
「主がなされたその救を後に生れる民にのべ伝えるでしょう。」(口語訳55年)

ヨハネの「完了した!」は、詩篇22編の「主がなされた。」と一緒です。

しかし、この詩篇を全部見る必要があります。22編は全部、苦しんでいる救い主の話です。これこそ、キリストの受難です。
             
まず、気づいていただきたいことは、
1節から21節まで、救い主は、完全に人間として敵に攻撃され、さげすまれ、拒絶されます。また神様にも「見捨てられた」気持ちを経験します。

十字架につけられる前のイエス様は、仲間に裏切られ、ゲツセマネの園で十字架のことを考え嘆かれました。そのすぐ後、悪い人の手に渡されて逮捕されました。イエス様は、その弟子たち、一番親しい友人たちに、捨てられました。

十字架に向かう道でも、十字架の上でも、イエス様は、完全に私たちが経験する苦しみと拒絶感を経験されました。
私たちと同じだけではなく、私たちとして、その全部を経験されました。
私たちに完全に同情できるだけではなく、私たちの代わりに、その全部を経験された救い主です。

イエス様は、人間に捨てらましたが、神様には、捨てられませんでした。
どうすればこれが分かりますか?

まず、その同じ詩篇 22編
24 「まことに、主は悩む者の悩みをさげすむことなく、いとうことなく、御顔を隠されもしなかった。むしろ、彼が助けを叫び求めたとき、聞いてくださった。」
また、
ヨハネ16章32節
「あなたがたが散らされて、それぞれ自分の家に帰り、わたしをひとり残す時が来ます… しかし、わたしはひとりではありません。父がわたしといっしょにおられるからです。」
また、イエス様は十字架の上で、祈られました。

ルカ 23:34 
十字架の上で、イエスはこう言われました。
「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」
イエス様が、天のお父さんに見捨てられたならば、どうして今イエス様は祈っておられるのでしょうか?

いや、イエス様は、十字架の前でも、その上でも、見捨てられた気持ちを経験されましたが、決して天のお父さんに見捨てられてはいなかったのです。

あなたも、わたしも、どんなことがあっても、人間に拒絶されても、神様に見捨てられたと感じても、実は、ぜったいに見捨てられていないのです。
例えば、私たちがひどい罪を犯しても、神様は、私たちから目をそらすこともなく、離れることはありません。
私たちがその素晴らしい赦しと恵みに向き直すように、招き、待っておられるだけです。

もう一度言います。
天のお父さんは、あなたの未信者の友人、親戚、知り合い、そして、神様のことをまだ認めていない全ての人を愛の目で見ておられます。
罪のどん底いる人、罪深い生活をしている人でも、神様が見ておられ、捨てはいないのです。

今回は、この二つの勘違いを見ました。
1:「神様は、罪を見ることはできない。」ではなく、愛の目で、罪深い人間を見ておられます。
2:「イエス様は、十字架の上で、神様に見捨てられた。」のではなく、天のお父さんは、イエス様から離れませんでした。

更に、十字架の素晴らしさに感動して、神様の愛と恵みはどれほど大きなものかを知ることができるように、祈っています。
また、毎日その豊かな恵みにとどまり、常に感謝して、本当に良い知らせ、福音を未信者に知らせることができるように、祈っています。

次回も、続けて、大きいな十字架の勘違いを見てみましょう:
・天のお父さんは、十字架の上におられるキリストから離れましたか?
・神様は、その怒りをイエス様に注がれ、それによってイエス様が死なれましたか?
・罪人は、神様の敵ですか?

を見てみましょう。

Mis-understandings of the Cross - Part 1
As followers of Christ, the cross is central to our faith and lives.
However, the doctrine of penal substitution that is believed and promoted by most evangelicals embraces some big misunderstandings. Believers who take this doctrine without examining it thoroughly may end up with some rather large doubts about the nature of God.
In these next three sessions we will take time to look at the cross and some of the common misunderstandings surrounding it.
Please follow up with your own reading and prayer of the relevant scriptures and once again worship God for the fullness of the cross!

「あなたは、恵みによって救われた罪人じゃないよ。」You Are NOT a Sinner Saved by Grace


エペソ1:1を読みましょう。
神のみこころによるキリスト・イエスの使徒パウロから、キリスト・イエスにある忠実なエペソの汚れた罪人たちへ。

え?違いますよね。罪人ではなく、聖徒と書いてあります。

そうです。
あなたは、恵みによって救われた罪人ではなく、罪人でしたが、あなたは、キリストを信じて、罪人の性質の自分が死にました。
あなたは、神様によって新しく生まれ変わり、キリストの中に置かれ、神の義となりました!

聖徒という言葉は、新約聖書の中、訳によって、45回~64回ぐらい使われています。その全部は、あなたについて使われています。

イエス様、パウロ、ヨハネの教えの流れを全部見て見ると、クリスチャンはもはや罪人ではなく、罪の奴隷ではなく、聖徒です。義人です。

言葉の定義
イエス様の十字架の働きの素晴らしさ、また、自分はその十字架によってどれ程新しくされたかをもっと理解し、信じて、感謝することができるように、少し私達の「肉」である罪の本質、と私達の肉体、つまりこの体、そして、私達の新しいキリストの本質を定義しましょう。

罪の本質
全ての人間には、生まれながらの罪の本質があります。これは、新改訳聖書には、「肉」として翻訳されています。
注意してください新改訳と多くの日本語の聖書は本来のギリシア語(sarx サークス)、に忠実で、「罪の性質」と「肉体・体」にも同じ「肉」と言う原語使われています。しかし、著者の考えは全然違います。他の訳、現代・リビングバイブルなどは、この「肉」の言葉を「古い人・古い性質」と訳していますし、英語の訳も、もっと明確に「罪の性質」と訳しています。

リビングバイブルには、こう書いてあります:
ローマ 7:5 
「あなたがたの古い性質がまだ生きていた時には、罪深い欲望があなたの内部で跳びはね、神様のご命令には何でも逆らい、罪深い行ないという、死に至る腐った実を結びました。」

新改訳と他の日本語訳は殆ど「肉」と訳しますが、この「肉」、またこの「死」も、肉体のことではなく、霊的な状態を表しています。

簡単に言いますと、この状態では「罪を犯すことは、自然、当然」の本質です。

肉体
この罪の本質の肉は、私達の肉体とは違います。
ギリシア語は同じ言語を使いますが、その意味の違いはかなり明確です。
たとえば、何回も、パウロは、あなたは「死んだ」と言います。もちろん、あなたの体が死んだのではなく、「罪の本質」、「古い人」が死にました。
そして、別の場所(ガラテヤ2:20)に、パウロが「今、私が肉にあって生きている」と言いますが、それは、罪の本質で生きているのではなく、この体が生きているということですね。
この肉体は、主の御霊の宮となる体です。体を大事にしてください!
(体自体が罪深いものではありません。この考え方は、グノーシス主義と言います。中世の教会に大きな影響を与えてしまいました。神様は全ての創造物をみて、「良し!」と宣言されました。)

キリストにある新しい性質
一番素晴らしいことは、私達はキリストの中にある新しい性質です。
ローマ 7:6 
「しかし、今は私たちの古い人(古い性質、罪の本質など)が死んで、それから解放されたので、律法を守るという古い方法ではなく、御霊によって生れ変った新しい人を強めていただくという方法で、主に仕えているので。」

別の箇所で、
コロサイ 3:3
「あなたがたはすでに生れながらの利己的な性質に死んで、新しい命が与えられており、それはキリストと共に神のうちに内蔵されているからです。」

あなたの本質が変わりました!
この肉という古い罪の本質が死んで、あなたは、「キリストと共に神のうちに内蔵された」、と書いてあります。

「罪を犯すことは、自然、当然」の本質から、キリストの本質に変えられ、私達は、今神を愛すること、感謝すること、従うことの自然・当然の性格になりました。

天のお父さんはあなたを見ると、あなたの欠点、失敗、罪ではなく、あなたの新しい「キリストにある本質」に目を留めます。
そして、もちろん、私達は、毎日この「新しいキリストの本質」の知識の中に、また信仰の中に成長しています。

もう罪を犯すことはできません?
罪を犯すことは、できなくなった訳ではないが、罪を犯すことが不自然になりました。
また、罪を犯さない選択が毎回与えられています。
以前、罪を犯すのが当たり前、せずにいられない、仕方ない、罪を犯しても平気でしたが、今は、罪を犯したら、これは私の本当の性質ではないとの確信が与えられます。

本当のキリストの性質に、向き直るように心が向けられます。
もちろん、自由意志によって、その「確信」を無視して、神様の恵みに背向いて、続けて罪を犯すのは、次第です。

その罪の結果は、私の体にも、こころ、思いにも、人間関係にも来るでしょう。
哀れみ深い神様は、私が目覚めて、自分のキリストにある性質を認め、イエス様の恵みに向き直すまで、待っておられます。

罪の性質のアイデンティティの悪い結果
自分はだれであるかと理解するのは大きなことです。

この表現もあります:
「信仰よって救われた罪人だと信じれば、あなたは、信仰によって罪を犯します。」

多くのクリスチャンは、
「救われた単なる罪人だ、ちっぽけな虫、床のチリ、ほこりに過ぎない者だ。」と偽りの謙遜言っています。
こういう考え方には、大きな悪い結果があります。

1. 罪人は罪を犯す
まず、自分を罪人と呼ぶ人は、罪人のアイデンティティによって生きるのです。
罪人は何をする?罪を犯す!仕方ない、罪人だからね。いつも罪に注目していますからね。これは、大きな嘘で、言い訳です。

2. 罪人は、十字架を信じていない
次の悪い結果:
自分を罪人だと呼ぶクリスチャンは、神様の十字架の働きは不十分であると考え、それを信じています。
「はい、クリスチャンです。イエス様の十字架を信じます。しかし、まだ罪人ですから、まだまだ罪を犯しているので、何かしないといけない。」
えっ?この「何か」は何でしょうか?
キリストの十字架足りないことは、何がある?十字架は不十分ですか?神様の恵みは足りないのですか?
このところで、自分の力を頼るようになります。宗教のルールや、つまり律法に戻ります。
自分中心の信仰生活に戻ってしまいます。

3.  証しには力がありません
もう一つ、罪人のアイデンティティを持つクリスチャンは、未信者の前で証しをする時、力がありません。

もちろん、私達クリスチャンは既に完全、完璧な人間になっているのではありません。
しかし、罪からの解放があります。
そのメッセージは、大事です!この世の人々は、罪の結果によって、苦しんでいます。生きている地獄を毎日経験している中で、救いを求めています。
その中で、多くの人は、宗教に走ります。自分の行動によって、自分を磨こうとすることは、宗教のもとです。
やがて、キリスト教も、自分を良くして、自分を変えようとする単なる宗教に過ぎないものとなってしまいます。
他の宗教と同じように、何となく良い人なろうとして、実際に罪に対しては、無力だ、というメッセージを伝えてしまいます。
しかし、私達は無力ではありません!
キリストのメッセージは、愛と受け入れだけではなく、自由と解放です。
罪の赦し、心の解放です。

4. 罪人は、神様の作品を侮辱します
友人は絵を描いています。
私が部屋に入ってきて、「おかしい!変な絵や!」と、その絵に向かって言ったら、その画家を誉めていますか?
全然、誉めていないよね。
じゃあ、どうして、私達が自分を見て、また他のクリスチャンをみて「罪人」だと簡単に言えるでしょうか?
これは、自分のこと、相手のことだけではなく、造り主の働きを侮辱しています。
本当の謙遜は、自分を低くすることではなく、自分を「正しい目」で見ることです。

罪の戦い?
では、いつまでも続けて罪と戦っているクリスチャン、なかなかその罪からの解放できない信者は、どうしたらいいですか?

まず、理解することですね。
実は罪との戦いではありません。神様でも、あなたの罪を見ていません。
罪は既に十字架のゆえに、処分されました。
戦っているかと言いますと、敵の嘘、自分の肉体の中の悪いくせと習慣、そしての傷と戦っているのです。

ここでは、3つの対策を短く紹介します:
1. ローマ5:5にあるように、聖霊によって、神の愛に留まっていますか?天のお父さんに完全に受け入れられ、愛されているというアイデンティティは、人生のもっとも大切なことです。
毎日、主の安息に休んでいますか?
2. 次に、敵の嘘を閉め出し、イエス様自身の真理を受け入れます。嘘をさらけ出して、真理と入れ替えてください。
今日の話しは、その一つ。「罪人アイデンティティ」の嘘を捨てて、自分は、キリストの中、神の義だという真理と入れ替えてください。一日中この真理を宣言して、感謝してください。時間を取って、この簡単な祈りをしてください。「主よ、私が信じている嘘を示してください。また、その嘘を閉め出す真理を教えてください。」主が教えてくださることを、書いて、聖書の言葉を読み、祈りながら、真理の宣言を作ってください。
偽りの謙遜が含まれている讃美歌もありますので、嘘の宣言、告白などに気を付けって下さい!
そして…
3. 兄弟姉妹との関係の中で、助け合いましょう。これこそ、教会の一番大事な役割です。集まって、建て前ではなく、本音を話し合って、本当の自分の現状を話し、祈り合ってください。
ガラテヤ 6:1
「愛する皆さん。 一人のクリスチャンが何かあやまち/罪を犯した場合、神様を敬っているあなたがたは、優しく謙遜な気持ちでその人を助け、正しい道に立ち返らせてやりなさい… 相手の悩み・重荷を共に背負い、そのようにして、キリスト様の命令に従いなさい。」
これは、クリスチャン生活の中で、よく忘れられている大き鍵です。

ぜひ、皆さん、こういう助け合う、支え合う関係を大事にしてください。

最後に、
自分のアイデンティティを宣言する言葉を入れておきます。どうぞ、少し時間を取って、キリストの中のあなたの本当のアイデンティティを感謝してください。
また、SOZOの解放のミニストリーのリンクを下記に紹介します。興味があれば、ご覧下さい。

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宣言する言葉
キリストの中にある、あなたの新しいアイデンティティを感謝して宣言する御言葉、いろいろ紹介します:

ガラテヤ 2:20
「私の古い罪の性質のある自分は、キリストが十字架上で死なれた時、キリストと共に死にました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。今、私が肉体を持ってここに生きているのは、私を愛し、私のためにご自分のすべてを捧げてくださった神の御子を信じることによって、生かされているので。」

コロサイ 3:3
一度死んだわけですから、この世に何の未練もないはずです。 あなたがたの真のいのちは、キリスト様と共に天の神様のもとにあるのです。

使徒 17:28
私たちは神様の中に生き、動き、存在しているのです。 

エペソ 2:6
そして、キリスト様と共に、墓の中から栄光へと、引き上げてくださいました。 その天の領域で、私たちはキリスト様と共に、席に着いているのです。 これはすべて、キリスト・イエスが成し遂げてくださったわざに基づいているのです。

You're Not a Sinner Saved By Grace!
Some my think the difference trivial, but living with an identity as a “sinner, saved by grace” rather than a ex-sinner who is now the Righteousness of God in Christ Jesus can have huge influence on our lives. This false humility based in humanism rather than scripture keeps many Japanese Christians bound to an old covenant identity, and constantly struggling against something that Christ has already dealt with at the cross.
This brief teaching addresses this issue head-on.
Please pray for the church in Japan to be set free into the fullness of their identity in Christ!

シンディー・ジェコブスによる報告

ACPE(Apostolic Council of Prophetic Elders)は1999年から毎年、新しい年を迎えるにあたって会合を開き、主からのことばを祈り求めています。これは使徒13:1-3で弟子たちがしたことに倣うものです。
それと共に重要なこととして、預言のことばの中の神の裁きは、とりなしの祈りによって軽減されたり、或いは全面的に回避することが出来ることを申し上げておきます。

2015年:方向転換の年

今年はたつまきの年のように見える年になりますが 、神はご自分の民に 再調整(recalibrate)する機会を与えてくださいます。Recalibrateという言葉には「途中で正す、改変する、修正する、変更する、変革する、刷新する、転換する」という意味があります。

たつまきに巻き込まれたとき、あなたは上に挙げた全部のことをしなければならないかもしれません。すばらしいことに、神はあなたの状況を全く新しいレベルに引き上げるために必要な油注ぎ、知恵、超自然的な力を解き放ってくださいます。

揺さぶりやたつまきの中では、神は往々にして普段とは違う方法で語られることを心に留めてください。それは時として「recalibrateせよ」との言葉です。

今年は神があなたの叫びを聞いてくださる年です。2列王記20:1-11にヘゼキヤは死ぬと言われましたが、彼は壁に顔を向けて神に叫び、あと15年の命を受けました。へゼキヤは死から命へと方向転換したのです。
病気に関する悪い知らせを受け取った人に、病と戦うための新しい恵みの力が注がれます。猛烈に激動する今シーズン、神の御顔を求める者には、絶望的な状況をも転換するための戦略が与えられます。 不可能とも思えるあなたの状況を神は転換させます。

安息

ユダヤ暦で毎月15日は安息を表しています。安息日に休息することが新たに強調されます。一人ひとりが今シーズン、どのように安息に入ればよいかを主に聞く必要があることを預言者たちは警告しています。ある人にとってそれはサバティカル(安息年)をとることでしょう。

又、ある人にとっては、スケジュールを調整して日曜日には働かないようにすることでしょう。またある人にとっては仕事の量やスケジュールを軽減することでしょう。すべての人が、何らかの形で、自分の生活様式を変えて安息に入る必要があります。そうすることによって、あなたが先のシーズンに直面した巨人を征服し新しいシーズンのための新たな力を得ることができます。

今年はユダヤの伝統ではシェミタの年にあたっています。即ち、農業の7年のサイクルの7年目、安息の年です。ですから休息の必要が例年よりも特に強調されます。ある人にとって真の安息であることも、又別の人にとっては安息にはならないかもしれません。

「5」という数は聖書では恵みを表しています。たつまきの最中に特別の恵みが与えられるでしょう。
神があなたに与えられた中心的な達成課題からあなたを引き離そうと妨害するものを避けてください。それは次のように言い表すことも出来ます。すなわち、神があなたに責任を持たせていない仕事をしないでくださいと言うことです。なぜならそれをすれば、神が責任を持って成し遂げるようにとあなたに与えた仕事を優秀な形で達成するための力を妨げることになるからです。あなたの周りにはあなたを混乱させるような渦巻きが起りますが、あなたは神から与えられた仕事から決して引き離されてはなりません。

ユダヤ暦では今年は5775年です。「5」という数が2つあるのは、二重の恵み、或いは2倍の恵みを表しています。今年は去年に引き続いて2倍に与えられる年です。成就、完成、達成のための恵みが与えられることを信じてください。
再び言いますが、たつまきと試煉の真っただ中において、 あなたが解放されるための鍵は礼拝、ワーシップです!

神による真夜中の方向転換

今年は神による真夜中の転換の年です。今まであったものとこれから来るものの間には大きなコントラストがあります。真夜中の時間とは、私たちが神を信じるか悪魔を信じるかを選び取らねばならない真っ暗な時です。それはあなたが「神は真実なお方です」と言い続けるか、もしくは自分の感情に押し流されて信仰がくじけるかの分かれ目なのです。

パウロとシラスは鎖につながれていたときに神を礼拝しました。そして真夜中に神は彼らに転換を与えられました。(使徒16:25)主は真夜中にあなたの鎖を解き放ってくださるのです!
サムソンは真夜中まで寝ていましたが、起き上がって町の門のとびらを引き抜きました。(士師記16:3)真夜中に超自然的な力が与えられるのです!
エジプト人からの解放は真夜中に起りました。(出エジプト11:4)主はあなたのために真夜中に動かれます。あなたを圧迫するどのような者からもあなたは解放されるでしょう!

ルツは親類であり、又彼女を買い戻す(救い主としての)権利を持つボアズの心を真夜中に変えました。(ルツ3:8)主はご自身をあなたの親類、又救い主として顕されるでしょう! これは家系の遺産 generational inheritance の回復を表しています。結婚ができないと失望している人たちがいますが、多くの人に「ボアズ」が今シーズンはっきり現れるでしょう。

次のシーズンへと移っていく真夜中の時に、私たちが堅く立つことを主は要求されます。私たちは最早、古いシーズンにとどまることは出来ません。上記の「recalibrate 」という言葉は、さなぎが蝶になるほどの変革を示しています。「あがき苦しむ」という行為を伴うという点で、これはふさわしい表現でしょう。

敵の策略は敵の頭上に

エステル記9:1-4には、神が御民に与えた敵の策略が逆転したことが書かれています。興味あることに、一節にあるヘブル語で「転ずる」という意味の単語は、ストロングのコンコーダンスでは2015番です!それは「ひっくり返す、向きを変える、逆にする、転換する」という意味をもっています。 今年は神が向きを変えてくださる年です。聖書の中で15という数は、「勝利」と「収穫」に関連しています。仮庵の祭りや種なしパンの祝い、プリムはすべて月の15日から行われます。エステル記9:24-26には、ユダヤ人の敵であるハマンの悪い計略が彼の頭上に返って来たとあります。これはユダヤ人にとっての「真夜中」に神が起した逆転劇でした!敵はあなたに対してどんな策略を立てていますか?それは方向転換して敵の頭上に返って行きます!

教会

私たちは今、これまで何年も預言されてきた「ジーザス・ピープル・ムーブメント」の中に現に入っています。魂の大収穫が今起こっていて、それと共に霊的大覚醒が起っています。

今は神が教会に 伝道者と伝道活動の新たな波を解き放っている時代です。リバイバリストが再び路傍に出て行き、大いなる超自然的力を顕すときです。

伝道者の役割が教会でもっと強調されねばならないと、主が勧告されました。それと共に、説教においても社会派的福音から超自然的福音を強調するシフトが起こるでしょう。神は奇蹟を働かせる力をもって突如として教会に現れる用意をされています。それと対になって、同情と憐れみによる働きが教会から流れ出ます。教会は貧しい人を心に留め、神の愛は傷ついた人びとの人生に届きます。又、神の民を偶像礼拝から導き出し解放する者たちがモーセのように現れます。
 私たち預言者は全員一致して、教会の中のまどわしに警戒するように主が強く警告されているのを感じました。多くの者が自分の肉の欲を満たすために自ら惑わされて行きます。

教会は霊的戦いをすることを再び学び始めます。多くの者が再び教壇から霊的戦いについて教えるようになります。教会は現在のカルチャーの暗やみの中に、新しいレベルで明るい光として輝きます。
新しい祈りのムーブメントが起り、その祈りはなまぬるいキリスト教から教会を抜け出させます。

教会は新しいレベルの成熟度に達します。「御国」についての教えがなされるので、社会の様々な分野に福音が届き、それによって国々が主のもとに帰る動きがますます起っています。

イスラエル

今はユダヤ人の魂の収穫が始まる時です。ユダヤ人とアラブ人の両方から大胆な証し人が起こります。

アメリカ合衆国

主はこれから起ころうとしている「揺さぶり」を用いられます。それには更なる国内での攻撃もあります。人びとを揺り動かし、神を必要としていることを彼らに目覚めさせます。これは寄せては又返ってくる波のように何度も起ります。
クリスチャンは自分の信仰の証を大胆にするようになり、今の時代のカルチャーと非常に対立する立場をとります。神の価値観をもった映画をつくるプロジューサーが更に増えます。そして人びとの嗜好が変化するので、ハリウッドはサタン的な映画の興行成績が不振になります。
ニュースメディアの分野においても、これから増々クリスチャンが顕著な力を持つようになり、義が影響を及ぼすようになります。
アメリカ合衆国は義にむかって方向転換するチャンスをあと1シーズン与えられています。ヨーロッパに対する預言の中にあるように、アメリカに影響を及ぼす経済的揺さぶりがヨーロッパで起ります。しかし、多くの祈りのグループがこの警告に耳を傾け祈っています。祈りによって経済的揺さぶりは大いに軽減されると私たちは感じます。第二歴代誌7:14は、国家的経済、並びに個人的経済に今も適応すると信じます。
神の油注ぎを受けた新しい法律家たちが立ち上がり、国の法律のシステムの流れの方向を変え始めます。

腐敗が国家的レベルで暴露されます。ペンタゴンと国会で暴露され、それは共和党と民主党の両方で起ります。

カナダ

カナダのために増々目を覚まして見張るようにと示されました。カナダは、ISISやイスラム原理主義の人たちに福音を伝える働きの鍵となります。

ラテンアメリカ

ラテンアメリカにおける共産主義の力は弱まり始めます。ラテンアメリカの人びとは、 極端な左翼的政府から中庸なシステムへと流れをシフトし始めます。

ヨーロッパ

ヨーロッパに経済的揺さぶりが起り、それがアメリカの経済にも影響を与えます。しかし、それは2008年に起った経済破綻のようなレベルではありません。これは2015年の秋に起るかもしれませんが、人びとの祈りによって遅延させることができます。しかしいつかは起ります。
再度申し上げますが、負債や負債の悪循環から抜け出すための方法を神に求める者には、超自然的な知恵が与えられます。
この中にあって、ヨーロッパを再び福音化する動きが始まります。神は、振るわれ苦しむヨーロッパの人たちの祈りを聞き始められます。そして神は彼らの祈りに応えられる準備に入ります。

フランス

フランスに住むラテンアメリカ人が、フランスにリバイバルを起こすための大きな役割を果たします。フランスは霊的覚醒を経験し始めますが、それは揺さぶりが続く中に起ります。ISIS関連のグループからのテロに対して祈り続けるようにと祈りの家に警告があります。

スペイン

スペインもラテンアメリカと同様に霊的覚醒のために神によって用いられます。

ロシア

熊であるロシアは、他の国々に対して自分の力を試す行為を続けます。アラスカとアリューシャンの島々は警戒が必要です。帝国主義の霊が放たれました。しかし、ロシアのキリストのからだは、共産主義が倒れた後に起ったような神の力強いムーブメントを再び見ます。再び神の力の波が地を覆います。

ウクライナ

ロシアとの深刻な問題によって教会に大きな一致がもたらされます。大きな伝道集会のために多くの協力体制がとられます。

日本

新しい若い日本のリバイバリストたちの中に神が力をもって働かれます。そして、かつては伝道が困難であったこの国で、大いなる魂の収穫が起ります。

中東

ISISは、しばらくは今のまま勢力を伸ばしていきます。しかしそれとは対照的に、彼らの邪悪さが人びとに福音への心を開かせ、多くの人たちがキリストに助けを求めます。ISISに参加するために自分の国を出た人たちの中からは、キリストに従う者となり中東に福音を伝え始める者が起ります。

預言者に対する主のことば

私たち預言者も聖霊から警告を受けました。これから起る揺さぶりとつむじ風のシーズンの中で預言する時は、主から受けたことばを大きな愛をもって語ることを心がけねばならないということです。

方向転換のための宣言

「私は安息に入ります。ですからストレスが原因で起る以下のすべての問題から癒されることを宣言します。
鬱、心配、不眠、高血圧、胃酸過多、ストレスによる心臓の問題。
私は繁栄し、すべての負債を返済します。逆転の年、私は負債から抜け出るプランを神から受け取ります。

私は信仰において新しいレベルに進みます。貧困が私を捕らえることはありません。

私を訴えるすべての裁判、仕事上の問題は逆転します。」(終り)

「悔いのない悔い改め!」 Repentance Without Regret


「悔い改めなさい!」は、キリスト教でよく聞く戒めのひとつですね。

旧約聖書から新約聖書まで、「悔い改める」という言葉は、日本語の聖書の訳によりますが、多くて150カ所で使われています。
この「悔い改め」という日本語は、新約聖書ギリシャ語のメタノイアの訳語です。
イエス様が実際に使った言葉はおそらく、ヘブライ語の「シューブー」と考えられます。

日本語でいう「悔い改める」の背景を理解しましょう。
これは、日本特有のキリスト教用語です。
キリスト教が初めて日本に伝来した際に、聖書の訳者が造語をつくり選択した言葉です。
これは私見ですが、この言葉が選択された背景には訳者の神学の見解や日本の文化からの影響が大きいと考えます。

面白いことですが、旧約聖書、新約聖書どちらの言語にも
悔いること
後悔すること
という意味はありません。

ここで、イエス様が初めてこの言葉を使った場面に注目してみましょう。

マタイ4:17
そのときから、イエスは、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言って、宣べ伝え始められた。 
イエス様は、福音、つまり良い知らせを伝え始められたとき、この「悔い改め」のメッセージでスタートしました。

しかし、これは矛盾していないでしょうか?
悔いること、後悔することは、良い知らせではありません。
だれにでも後悔することはできますし、大勢の人が毎日後悔しています。

良い知らせとは、新しい選択があることなのです。後悔すること以外の選択がある。悔いることをしなくてもいい、これこそ、良い知らせです!

その当時、イエス様が使ったヘブライ語の「シューブー」は、簡単に言いますと、向きを直す、向き直れという意味です。
つまり、他の選択に目を向けることは可能なのです。

もちろん、時として悲しむことは人生において大事なことです。
イエス様を信頼する時に、過去の失敗や罪などを思い起こして後悔するのは当然です。
私達は、信じた嘘や無駄にした時間の大きさを実感するときに、人を傷つけた大きさに気づきます。
自分の自己中心に目覚めたら、悲しむこと、悔いることは当然ですよね。
深く悲しんで、泣き崩れることもあるかもしれません。

しかし、詩篇30:5節
その怒りはただ、つかの間、その恵みは、命の限り長いからである。
夜は、泣き悲しんでも、朝と共に、喜びが来る。
悲しむことがあっても、それは一瞬です。喜びは、私達の常です。

こんなイメージを描いてみてください。

ショッピングセンターの中を歩くお父さんと小さい子供がいます。
人が多くてごみごみしているので、子供は不安になって、あわててしまいます。
そのうち、お父さんから目が離れてしまい、知らない人が目の前でバタバタするのを見て子供は怖くなります。
実は、お父さんはすぐ近くにいるのに、目をそらし見失ったために怖くなって泣き出す子供。
お父さんが子供の名前を呼ぶと、子供は向き直り、お父さんのほうを見て安心し、ニコニコ笑ってお父さんに抱いてもらおうと手を上げます。

一瞬、悲しんだ子供が、お父さんの存在と愛によって癒され、安心して喜ぶことが出来ました。

実際にはお父さんから離れてしまったわけではありませんでした。子供が離れたと感じて怖くなりました。

お父さんはずっとそばにいました。

でも、子供には選択がありました。
お父さんから目を離して怖くなった時に、「ああ、しまった!失敗した。どうしよう?!お父さんが見えなくなった!目を話さなければよかった。」と考え込んでずっと悔やみつづけるか、お父さんの声に応えて向きを直し、お父さんに抱っこしてもらうことか。

みなさん、向きを直すことと、悔い改めることは、違います。
少々のニュアンスの違いどころではなく、まったく異なることなのです!

この二つを比べてみましょう。

悔いることは、悲しむことに基づきます。
向き直ることは、喜ぶことに基づきます。

後悔することは、自分中心です。
向き直すことは、イエス様中心です。

後悔することによって、心が病む。
向き直すことによって、解放されて、心が癒される。

悔いることは、毎日できない。
向きを直すことは、いつでもできる。

自分の悪いところに目を留めているから、自分の失敗、自分の弱さ、自分の罪、自分の足りなさに、目が留まる。
向きを直すことは、自分から目を離して、イエスに目を留めることです。
自分の足りなさではなく、イエス様の満ちあふれる、いつでも、どこでも、足りている十字架の恵みと憐れみに目を留めることです。

悔いることは、毎日できない。
向きを直すことは、いつでもできる。
毎日悔いていると心が疲れてしまいます。自分の失敗に目を留めて、落ち込んで、鬱になるかもしれません。
しかし、向きを直すことはいつでもできます!
向き直すことはこの御言葉に基づいています。
ヘブル 12:2
「信仰の創始者、また完成者であるイエスにしっかりと目を留めつつ、走り続けましょう。」
ヨハネ 15:4
「わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。・・・わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。」

最後に、聖書から一つの具体例を見てみましょう。
十字架の前に、ペテロは大きな失敗をしました。
イエス様を知っていることを3度も否定しました。
その夜、自分の失敗、罪に気付いたとき、彼は激しく泣き崩れて、本当に後悔しました。
その失敗は余りにも大きくて、その後悔は一晩ではなく、一週間どころか、ずっと続いて重荷となり、彼に のしかかりました。

しかし、数週間後に、イエス様はペテロと2人きりで話すチャンスをもたれました。
その時に、イエス様は何を言われましたか?

まず、ペテロ、お前は、私を愛しているかい?とイエス様は3回同じ質問をします。
3回目に聞かれたとき、ペテロは心を痛めたと聖書には書かれています。

なぜでしょう?

後悔することで、自分の失敗を悲しんでいることで、ペテロは深く傷ついている。
しかし、イエス様はやさしくペテロに接し、彼が本来の生きる目的に目を留めるように、向きを直されようとしています。
「私を愛しているかい?」
つまり、すべては、私との関係に基づいているよ、とイエス様は強調しておられるのです。
また、「私の子羊を養いなさい」、「私の羊を飼いなさい。」
イエス様は、ペテロがもう一度イエス様にある目的、その召しに目を向きを直すことを促しているのです。

結論:
みなさん、クリスチャンの信仰生活の中心は、悲しむこと、悔いること、後悔することではなく、喜びを持って、常にイエス様に目を留めて、必要なら向きを変えることです。
もちろん、悲しむ事もある。一瞬、一晩。
しかし、イエス様の素晴らしさを見ることで、私たちは悔いる事と後悔する事から解放されるのです!

過去はイエス様の十字架によって聖められました!消えています。もはや存在していません。
イエス様ご自身も そのことを忘れて下さっています。
私たちは後ろを向いたまま 立ち止まるのではなく、前を向いて進むのです。
世界やこの世の考え方は、後悔は つきまとうものというのです。
イエス様と出会う前は後悔は山ほどありました。
私たちクリスチャンが未信者に与えられる贈り物は、悔いのない希望です。

実践:
では、実践しましょう。

  • 少し時間を取って、イエス様にまだ手放していない、過去の後悔あれば、聖霊様に示していただきましょう。
  • もし何か示してくださったら、一つ一つの後悔を手放して、そのこと、その罪などが、すでに十字架につけられたことを感謝しましょう。
  • そして、そのこと入れ替える赦し、真理、希望、約束、をイエス様からいただきましょう。
  • 主が示してくださる約束とみ言葉を書き留めてください。
  • そして、今から、その後悔の気持ちがもしよみがえって来るなら、イエス様の真理と約束の言葉を感謝して宣言してください。



[English]

Repentance Without Regret

The Japanese word for repentance in the Bible is kui-aratameru, with the word kui meaning to regret. 
However, I believe the choice of this Japanese translation for the original word reflects the culture and religion of the translators. 
The original word does not have any meaning of regret included in it. This brief teaching looks at the real meaning of the original Hebrew and Greek and encourages believers to "turn towards" Christ and his freedom with joy and expectation.

Jef Linscott
ONFIRE JAPAN