「罪からの解放1:なぜ豚小屋に留まるのか?」ジェフ・リンスコット





愛に溢れるお父さんは、放蕩してきた息子の悔い改めの演説の途中、そのまま、彼を受けいれます。
新しい服、新しい靴、新しい指輪を彼にあげて、彼を宴会に連れて入ります。

勘違いしないでくださいね。
悔い改めが不必要なのではなく、本当の悔い改め、メタノイア - 向き直し、考えを変えることが欠かせないことです。
信仰生活は、心の一新によって思いを毎日変えていく旅です。
「毎日新たにされています。」2コリント 4:16
しかし、自分の悲しみや、悔いる気持ちによって、なんとか神様の好意をいただこうと思っているクリスチャンは、自分の過去の罪、失敗、自分がどれほど悪かったか、また自分が罪人だというアイデンティティを常に覚えておかないといけないと思っています。
これは、本来の悔い改めとは違います。

自分の失敗を悲しみ、泣いてもいいですが、そこに留まってはいけません。
主はあなたの嘆きを喜びに変えてくださいます。
あなたの涙が喜びの涙になるはずです。
あなたの叫びは、感謝と賛美の叫びであるはずです。
「夕暮れには涙が宿っても、朝明けには喜びの叫びがある。」詩篇 30:5
悲しみは、一瞬、喜びは、一生!

じゃあ!罪を犯してもいいですか?罪はどうでもいいですか?
パウロが言ったように、言います:「絶対にそんなことはありません。」ローマ 6:15

この話の大きなキーポイントは、罪、つまり神様の目的から離れた行動をすれば、待っているのは豚小屋だということです。

お父さんが怒るとか、神様からのばちが当たるのではなく、あなたが、自分の選択の結果、その摘み取りとして豚小屋の中で苦しむということです。
せっかくの宴会のごちそうも食べれません。罪を犯すのは愚かなことです。もったいない!

前回言ったように、豚小屋自体は、神様の怒りと同時に、神様の愛の表れです。帰っておいでの招待状です。

ローマ1章:神様は、彼らを良くない思い、良くない行動に引き渡されました。
同じように、お父さんは、息子を彼の好き放題なことができるよう、そしてその報いを彼が味わう事を許し、明け渡しました。

「罪を犯すと、神様に怒られますよ!」ということを聞いたことがありますか?

これこそ、人間的な視野で、幼い考え方です。
パウロが言いました:愛は怒らず。
神は愛、そのものです。じゃあ、愛して下さっている天のお父さんは本当に、人間のように、怒りますか?

神様の心、その怒りも明確に見せてくださったイエス様を見ましょう。
イエス様が一番怒ったのは、何ですか?誰に対してですか?
罪人の行動に対してですか?違います。

偽善な宗教者に対して。
神様の御言葉を持っているのに、御言葉によって生きていない人に対して。
知っているはずのに、その知恵によって生きていない人々です。
イエス様は、罪人に対して、決して怒りませんでした。

キリストにある人よ。クリスチャンたちに言います:

神様は、もはやあなたの罪に注目していません。
言い過ぎですか?
言い過ぎではないと思います。神様が注目しているのは、あなたがキリストのように変えられていく、成長することです。
罪は、それを邪魔するものだけです。
「こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか。」ヘブル 12:1
要点は、罪に注目することではなく、生きる目的を邪魔することを捨てるのです。そして、前に置かれているその目的、神様の子供としてのアイデンティティにひたすら歩むことです。

「でも、あなたが罪を犯すと、神様は悲しむ。」

そうですよ。でも、それは、自分のことを認めない人間に対して、拗ねて悲しんでいるのではなく、せっかく、すばらしい宴会を用意しているのに、子供がドロドロの豚小屋に眠っているのが悲しいのです。
私も、父親として、子供が僕の言うことを聞かなかったら、人間のように拗ねることもできます。それは、愛の浅い、人間的、幼稚なお父さんではないでしょうか?
僕も、そうなったことがあります!

でも、子供が私のいうことを聞かないで、怪我をして傷ついたり、大切なものや、将来の素晴らしい機会を失うなら、もちろん、子供のために、悲しみます。

人の罪は、自分に害を与えます。なぜなら、神様の本来の目的から離れているからです。
全ての罪は、種のようなものです。必ず実を結びます。その実がすぐならなくても、時になると実になります。
罪を行う人は、罪の奴隷です。罪人、罪の奴隷のアイデンティティに属しています。

罪は、死を生む。
今、現在の死です。
現在の人間関係の中の死。
現在の心の状態、思い、体にある死。
その死がすぐ見えなくても、いつか、どこかで、その結果がでます。

この「死」というのは、今、生きている間の死です。
そして、クリスチャンも、その死、放蕩息子の豚小屋にとどまることもできますよ!
クリスチャンになっても、死の結果がありますよ。
ただ、罪に誘惑される時に、毎回、毎回、脱出の道も用意されています。
豚小屋に留まる必要はありません!

一つの証と同時に励ましを分かち合います。

ある若いクリスチャンの男性がポルノ中毒で苦しんでいました。
辞めようと思っても、辞められない状態で、罪の束縛からなかなか自由になることができませんでした。

ある日、夢を見ました。
牢獄にいて、オレンジ色の制服を着て、手には手枷、足にも足枷がつけられ、縛られている状態でした。彼は刑務所の食堂にいて、給食のトレーをもって、テーブルの間に歩き、食事をする場所を探しました。
突然、イエス様が見えました。同じ、オレンジ色の制服を着て、同じように給食のトレーを持ち、座る場所を探していました。
しかし、イエス様には、手枷、足枷はありませんでした。
若い男性がイエス様に声をかけて、「イエス様、一緒に食事をしませんか?」と訪ねたら、イエス様は、にっこりして「もちろん!」と返事をしました。二人が座って、食事をして、会話をしました。
若い男性が、食事中に、あまりにも嬉しくて、「イエス様、毎日このように一緒に食事をしてもいいですか?」と聞くと
「もちろん、いつでも一緒に食事をしましょう。」とイエスが返事しました。
そして、身を寄せて、イエス様が彼に言いました:「いつでも一緒に食事をしてもいいですよ。でも、知っているかな。牢獄の扉は、空いていますよ。」
男性は夢からさめました。

牢獄の扉は、空いていますよ。
イエス様があなたと一緒に、その豚小屋の只中におられる。
しかし、その扉が空いていますよ。


キリストにあって、皆新しく生まれ変わったものです。
罪人のアイデンティティから、神様の子供のアイデンティティにかわりました。
豚小屋に留まる選択もあります。
牢獄に留まる選択は、あなた次第です。
でも、扉は開いています。

お父さんのもとへ帰る道は明らかです。

このメッセージを聞いて、まだまだ豚小屋に留まっているように感じる人、一緒に祈りませんか?よかったら、今祈りましょう!
・今、私は牢獄の中で苦しんでいます。イエス様、あなたは、その中で一緒におられますか?だとしたら、どこにおられますか?その中で、何を語っておられますか?・子とされている新しいアイデンティティについて、新しい啓示を受け取ります。見せて下さい。・豚小屋にこれ以上いるのはもう十分です。脱出の道を教えてください。具体的にどうやって父のもとへ帰れるのか、その道を示して下さい。



「悔い改めの演説を辞めましょう。」ジェフ・リンスコット





放蕩息子のたとえ話(愛に溢れるお父さんの物語)ルカ 15:11-32

続けて、放蕩息子の物語、愛の溢れるお父さんの物語を見ながら、真の福音を見ましょう。
前回言いましたが、この話の中には、神の怒り、和解、悔い改めや向き直し、赦し、救い、清め、愛もすべて見えます。

世界の人々は皆、この話のどこかにいます。

あなたは、どこにいますか?

お父さんのために、勤勉に働いているお兄さんですか?
イライラして、逃げて、放蕩したいと思っている弟ですか?
放蕩している最中の弟ですか?
放蕩してから、豚小屋にいますか?
豚小屋にいて、自分はどれほど愚かか、目覚めていますか?
お父さんの家に戻ろうと決めて、お詫びの言葉を練習していますか?
お父さんに抱き絞めてもらったところですか?
宴会の外に立って、弟のことを妬んで(ねたんで)いる、お兄さんですか?

あなたは、どこにいても、行先、目的地は一つだけです。
宴会です!屠られた子牛、イエス様の宴会のごちそうをいただくことです。

全人類はこの話の中にいます。
クリスチャンの皆さんも、この話の中にいますが、皆がいるべきところにいるわけではありません!

多くは、まだ豚小屋にいて、自分の悔い改めの言葉、演説を練習している。
毎日、練習しています。
どうか、神様
1回だけではなく、毎日のように、自分の失敗と罪の生活の思いに戻って、繰り返して、繰り返して、悔いることによって、なんとかして、天のお父さんに受け入れられるように、頑張っています。

皆さん、福音があります。グッドニュースです!
あなたの罪は赦されています!
あなたがその罪を犯す前から、あらかじめ赦されていたんですよ。
向き直して、その罪の聖めと解放、自由、喜びを経験して下さい!
もはや、罪のくびきを背負わなくてもいいです。

覚えてください。
豚小屋にいる弟は、囚われていない。
自由です。
我に戻って、さあ、お父さんの家に帰ろうと気付いたら、帰れました。
修行は入りません。努力も入りません。
心の一新だけですね。自分の本来のアイデンティティに戻るだけです。

常に悔い改めている人は、キリストではなく、自分の行動に信仰を置いています。

自分の本当のアイデンティティをわからない、不安なので、
「もしかしたら、昨日罪を犯しました。もしかしたら、救いを失ったかもしれない!もう一度悔い改めないと地獄にいく!あ〜〜〜!どうか神様、赦してください。どうか、どうか、どうか。」

皆さん、この「悔い改め」は、本来の意味と違います。
本来の意味は、向き直して、反対側から見る。
違う思いを持つ。自分から目を離して、イエス様に目を留めます。

この偽りの悔改めは、自分の失敗や罪、欠点を常に見て、自分の悔いる程度によって、神様に受け入れられることを信じること。
もっと悲しんで、もっと涙を流して、もっと叫び泣き、もっと後悔する気持ちをもったら、もっと神様に受け入れられるのでしょうか。
全部、自分中心、自分の行い中心です。

皆さん、あなたは、自分の悔い改めによって、救われるのではありません。向き直すことによって、救われた、赦されたことを経験するのです。

毎日、毎週、このような悔い改めの祈りをしているクリスチャンは、豚小屋に留まっている弟のようです。

もちろん、自分の行動が悪かった、罪だった、失敗だった、と認めることは大事です。
その失敗のために、後悔して泣いてもいいです。

しかし、本当の向き直すことは、弟が立ち上がって、お父さんの家に戻った時です。
自分の後悔にとどまったことではありません。

どうぞ、涙を流してください。
しかし、あなたの涙は、後悔の涙ではなく、喜びの涙であるはずです。
どうぞ、叫びたい人は、叫んでください。
しかし、あなたの叫びは、「どうか、主よ、赦してください!」の後悔の叫びではなく、喜びの叫びであるはずです。

豚小屋にいる弟を考えましょう。
ルカ 15章にありますが、部分的に見ましょう。(ルカ 15:14-22)

飢饉によって、弟は食べるにも困り始めた。豚小屋に働き始め、豚のえさを食べたくなってきた。
しかし、我に返ったとき彼は、こう言った。『父のところには、パンのあり余っている雇い人が大ぜいいるではないか。それなのに、私はここで、飢え死にしそうだ。立って、父のところに行って、こう言おう。「お父さん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。雇い人のひとりにしてください。」』ルカ 15:17-19
そうです。弟は、何の資格もありません。
私たちも、赦される、清められる、受け入れられる資格は一つもありません。
なので、イエス様が全部してくださいました!
私たちの資格は、イエス様ご自身です。
「こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとに行った。ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした。息子は言った。『お父さん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。』ところが父親は、しもべたちに言った。『急いで一番良い着物を持って来て、この子に着せなさい。それから、手に指輪をはめさせ、足にくつをはかせなさい。そして肥えた子牛を引いて来てほふりなさい。食べて祝おうではないか。この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだから。』そして彼らは祝宴を始めた。」ルカ 15:20-24
お父さんは、息子の悔い改めの演説を聞いてもいません。
途中で、お父さんは、しもべたちを呼びました。彼を宴会につれてはいりました。

皆さん、これは大きいですね。
なかなか罪を止められないクリスチャン、ここで葛藤のある人は多いです。

豚小屋に留まり、悔い改めの演説を毎日練習しています。

実際に、我に戻り、本来のアイデンティティに戻らずに、宗教の掟や規定を守りながら、自分中心の信仰生活をしているではないでしょうか?

どうすればいいですか?

このことで、ピンとくる人、こういう悔い改めの悪循環に縛られている人にチャレンジします。
一ヶ月、悔い改めの祈りを辞めてみてください。

代わりに、このように、祈ってみてください。
• 天のお父さん、あなたの愛を感謝します。• イエス様の愛、十字架と復活に目を留めます。• あなたはすでに私の罪を赦して、清めてくださったこと、ありがとうございます。• 過去の罪、現在の罪、将来の罪も全て、赦されて、清められています。感謝します。• あなたからの新しい服、新しい靴、指輪、ありがとうございました。いただきます。• あなたの宴会に入り、楽しみます。イエス様ご自身を食べます。イエス様のぶどう酒を飲みます。• あなたの愛、喜びと平安に浴びます。• 私の全てをあなたに委ねます!

「人の内に神の栄光を見つけ出す」ジェフ・リンスコット







イエス様を通して、天のお父さんの心がはっきり見えます。
「わたしを見た者は、父を見たのです。」ヨハネ 14:9
とイエス様は言われました。
「また、父はだれをもさばかず、すべてのさばきを子にゆだねられました。」ヨハネ 5:22 
しかし、イエス様は、自分についてこう言われました:
「わたしは世をさばくために来たのではなく、世を救うために来たからです。」ヨハネ 12:47

父なる神様と子なる神様の間の陰謀です!
人を裁くのではなく、救うための陰謀です。あなたも、わたしも、全世界の人々は、その恩恵をいただけます。

ヨハネ8章には、パリサイ人が、姦淫の罪に捕らえられた女の人をイエス様のところに連れて来ました。

イエス様は最後に彼女に言われました:
「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今後はもう罪を犯さないように。」ヨハネ 8:11
あなたの罪の道を離れなさい、ということですね。

マタイ9章にある、友人に運ばれた中風の人の話。
「イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に、『あなたの罪は赦された』と言われた。」マタイ 9:2 
と言われました。

気づいていただきたいことは、姦淫の罪の女の人でも、中風の人でも、何も言わず、何も頼んでいないのに、イエス様は彼らの罪を赦されました。

ルカ19章にある、収税人のザアカイの話で、イエス様は、彼の罪のことを何も言わなかったのに、一緒に食事して交わることだけで、ザアカイは、自ら罪の道を捨てて、
向き直し、イエス様についていくようになりました。

次は、福音書にあるわたしの一番好きな物語、放蕩息子のたとえ話です。

この話しの本当の主人公は、放蕩息子ではありません。これは、愛に溢れるお父さんの話です!
そして、私たち人間は皆、この話の中の登場人物です。世界の全人類が、この話の誰かに当てはまります。
皆さんは、誰に当たるでしょう?

この物語をベースにして、「人の内に神の栄光を見つけ出す」ことについて考えましょう。

まず、全ての人は、神様の似姿に作られ、神様の子供、神様の栄光のために選ばれた者です。
この話の中には、神の怒り、和解、悔い改めや向き直し、赦し、救い、清め、愛もすべて描かれています。

私たちクリスチャンはよく隔ての壁を作ります。
中と外。クリスチャンとノンクリスチャン。

しかし、イエス様は隔ての壁を壊すために来られました。(エペソ 2:13-16 )

私たち人間は人の違いを強調しますが、神様は、人間の行動や罪による違いに目を止められません。
「何の差別もありません。すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められたのです。」ローマ 3:22-24
以前言ったことがありますが、初めから終わりまで、弟も、お兄さんも、お父さんの子供です。本人が気づいても、気づかなくても、これは真理です。

問題、壁は全部、弟とお兄さんが作ったものです。初めからお父さんからの壁はありません。
神様に対する敵対心は、私達人間が作ったものです。神様からのものではありません。

この物語の中に、神様の怒りがはっきり見えます。
どこですか?
お父さんが、弟に大お金を渡して、手放して、旅に出したのは神様の怒りです。弟が快楽と放蕩に走ったが、ついに豚小屋の地獄にたどり着きます。これこそ、神様の怒りです。
自分の決断に対するふさわしい報い、結果を味わうということです。
ローマ1章にあるように、神様は、彼らを良くない思い、良くない行動に引き渡されました。
これこそ、神様の怒りです。

そして、神様の怒りは神様の愛の一面です。常に、子供がお父さんの家に戻るための招きです。
捌きと、子供を追い出す、見捨てるようなものではありません。人間のようなガンガン怒る怒りではありません。
子供が戻ってきて、お父さんの豊かな愛の中に帰ってくる為の招待状です。

この物語の中、神様の和解はどこですか?
初めから終わりまでです。
というのは、神様との和解は、私たちにかかっているのではく、キリストにかかっているのです。和解は、お父さんのこの言葉にあります:
「子よ。おまえはいつも私といっしょにいる。私のものは、全部おまえのものだ。」ルカ 15:31 
あなたの未信者の親戚、家族、友人、同僚は、いつ神様と和解されますか?
2000年前に、イエス・キリストの十字架によって、すでに和解されています!

話の最後に、宴会のために、肥えた子牛、イエス様が生贄となりますが、実は、イエス様は、世の初めからほふられた小羊です。

弟が家を出る前に、放蕩する前に、豚小屋に入る前からも、お父さんは、彼を愛して、彼を罪の当然の報いを味わう事を分っていながら、それを許し、また彼を赦して、彼と和解をしました。
ただ、弟は、その赦しと和解を経験するためには、お父さんに戻る必要がありました。

皆さん、これこそ、福音です!グッドニュースです。
「すなわち、神は、キリストにあって、この世をご自分と和解させました。違反行為の責めを人々に負わせないで、和解のことばを私たちにゆだねられたのです。」2コリント 5:19
この物語の中、悔い改めはどこですか?
弟が自分の状況に目覚めて、我に戻った、と書いてあります。
気付いて欲しいことは、
悔いる気持ちは、大事ですが、神様を喜ばすためにではありません。
「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて、振り替えて、福音を信じなさい。」マルコ 1:15
向きなおして、見て下さい。あなたの罪はすでに赦さています!

どうやって、未信者の友人、親戚を見ればいいですか?
そのままですね。未信者、未だ信じない人だけです。
眠っているように、まだ、その現実に気付いていない人達です。
「眠っている人よ。目をさませ。死者の中から起き上がれ。そうすれば、キリストが、あなたを照らされる。」エペソ 5:14 
私たちがまったく一緒です。ただ、起き上がってキリストの光に照らされているだけです。

偉そうに、未信者との違いを強調して、隔ての壁を作るのではありません。

イエス様のように、この簡単なメッセージを伝えましょう:わたしは、あなたの罪を見ません。あなたを捌きません。
向きなおしてみて!あなたの罪はすでに赦さていること、を見てください!

今日の宿題です。この簡単なメッセージを誰かに伝えてみてください。
神様も、わたしもあなたのことを攻めません!
あなたの罪、失敗、傷はすでにもう赦されています。
信じますか?

素晴らしい一週間を迎えてください。

「あなたの人生を変革する」クリス・バロトン Transforming Your Life - Kris Vallotton





同時通訳:相馬伸子 
ローマ12:2、マタイ17:2 、箴言13:20、マルコ4:24、25 

あなたの人生を変えたいと思う人がどれだけいるでしょうか?
あなたは人生を変える事はできませんが、あなたは思い、考えを変える事はできるのです。
そうすれば、神はあなたの人生を変える事ができます。

ローマ12;2の「心の一新によって、自分を変えなさい」とありますが、この「変える」という言葉は、マタイ17:2にある「御姿がかわり」という言葉と同じ言葉です。

「最初に聞いた事が土台であり、フィルターになる」という原則があります、これはある事柄の事を初めて聞いた時、それは土台となり。フィルターになります。
その次に同じ事柄を聞いた時には最初の土台のフィルターを通して見る、考えるという事です。私達が「み言葉の真理」を土台、フィルターにするならば、真理でないものは出す事ができますし、真理が土台となるだけでなく、フィルターの役割も果たすのです。

思いを変えるには、どうするのでしょうか?私は自分の霊で思いにかたります、「わたしの思いは、このような事柄を思い続ける事ができない」とします。
わたしの「思い」はわたしの霊に従うので、私は自分の思いの奴隷ではないのです。

人生を変えたいと思ったら、思いを変える為に、自分の周りの文化を変える事によって、自分の内側の文化を変える事ができます。
箴言13:20でありますが、自分が「こうなりたい」とおもうような、思いが健全な人たちとつながってください。
もちろん、すべての人に対して、私たちは「奉仕」する事ができますが、「奉仕する為につながる人々」と「自分に影響を与える為につながる人々」は異なります。

マルコ4:24でイエスは「聞いている事によく注意しなさい、あなたは人に量ってあげる、その量りで自分にも量り与えられ、さらにその上に増し加えられます」と言いました。聞いている事で自分の基準ができ、それによって自分の所にも聞いている事が増加してやってくるのです。

思いを変える事ができないとおもいますか?
あなたが新生した時に古い人は、死にました。十字架は古い人の為です。死んだ古い人に話しかけたり、よみがえらせたりしないでください。
古い人を「脱いで」あたらしい人を「着る」のです。
真理によって、実際にある葛藤、その葛藤の根は嘘を信じているからだと思いますが、と置き換えてそれを語るのです。

自分で自分の人生を変える事はできませんが、思いを変える事はできます。そうすれば、神様があなたの人生を変革してくれます。




ベテル教会の英語のPODCASTの同時通訳:相馬伸子 © Bethel Church, 933 College View Drive, CA 96003 Tel. 530-246-6000 Interpretation by Nobuko Soma http://www.onfire.jp 

「王国」ポール・マンワリング Kingdom - Paul Manwaring













同時通訳:相馬伸子



1サムル16:7、マタイ13:11〜13、



「王国」、「神の国」という言葉について、今日は皆さんの心が引き伸ばされる事を願ってお話しします。

「王国」とは、どこですか?

私はUKで生まれました、女王がいる国です。でも、その王国に生まれる事は、自分の選択ではありませんでした。

もう一つは、選択がある「王国」です、新生する時に「神の国を見る事ができる」とあるように、これは、あなたが新生する時に王様であるイエスを招待した、お迎えしたことによって、あなたの内側に神の王国がきます。



新しく生まれなければ、「神の国」を見る事ができない、ということは、私達新生した信者が、「見る」事ができるともいえます。

神の王国はとは、私たちがあるルールや、解決方法を問題のあるこの世に持って行き、強制的に上から与える事でもたらせる事ではなく、神の王国は、私のうちにイエスキリスト、栄光の希望が住まわれる事で、影響を私をとおしてこの世に現れるようなものです。



神の国は「内側で起こる変化」であり、栄光の望み、イエスキリストが現れる事です。人の視野ではなく、神の視野で見て、それを生きる事で影響をしていく事です。



1サムエル16:7でわかるように、人は外側をみるけど、神は心を見ます。私たちの周りの世の中とは、違う視野、違う聞き方を新生した信者は持つ事ができます。

それが、マタイ13:11^13でいわれるように「奥義を知る事が許されている」ので、神の国の奥義を新生した信者は知る事ができるのです。ですからその事を求めていきましょう。



神の国のライフスタイルは、「探し求める事を続ける」ことでしょう。マタイ13:44〜46であるように、商人は素晴らしい価値の真珠を見つけ、その為に全てを売り払い畑を買います。神の国は「高価な真珠」ではなく「良い真珠を探している商人のようだ」といっているので、私たちは「良い真珠」をみつけて、これが神の国だと誤解しやすいのですがそうではないのです。

いつも、求めること、探すことがライフスタイルになるように。



あなたが自分の思い、考えで、「神の 国」がどれくらいのサイズがあるのかと思っていることが、実際にあなたの信仰で現れます。

それは、いつも成長するべきだと思います。



英語動画:http://www.bethel.tv/watch/4089/kingdom-sunday-pm/2016/07/10



Onfire Japan のポドキャスト:

https://itunes.apple.com/jp/podcast/onfire-japan-messages/id155793227?mt=2



ベテル教会の英語のPODCASTの同時通訳:相馬伸子 © Bethel Church, 933 College View Drive, CA 96003 Tel. 530-246-6000

Interpretation by Nobuko Soma

http://www.onfire.jp


「とりなしの為のポジション」ビル・ジョンソン Position of Intercession - Bill Johnson JAPANESE



2歴代師7:14 

「わたしの名を呼び求めているわたしの民が、自らへりくだり、祈りを捧げ、わたしの顔を慕い求め、その悪い道から立ち返るなら、わたしが親しく天から聞いて、彼らの罪を赦し、彼らの地を癒そう」

アメリカで、最近いくつもの、神の介入がなくては、自分たちの努力ではどうにもならないことが表面化しています。私たちには、癒しが必要であり、心の傷んでいる、壊れている所に癒しが必要です。

アフリカ系アメリカ人男性に対しての、警官による発泡事件事件や、オーランドでのナイトクラブでのテロリストによる事件、また、警察官を目的にして、1人が5人を射殺した事件もありました。これらは悲劇です。私達が必要なことは、慰めを与え、ともに立つことです。
理由がどうであれ、命が奪われたことは悲しいことです。私たちはそこで、裁きの声を出さずに、慰めたいのです。

政治的な霊は「ピラト」のように、手を洗って、自分はこの問題とは関係ない、と距離を置きます。宗教の霊は「姦淫の女」に石を投げるように、自分が宗教に熱心な事を裁く事によって、見せようとします。私達は「神の御国」のやり方で、進む時です。

とりなしの時に「私たち」「かれら」といって、しまうことは、「裁きの霊」に加担してしまうことが容易になります。
とりなしとは、「ギャップに立つ」こと、「相手の立場にたって祈る」ことであり、相手の立場に立つことは「聞くこと」なしにはできません。
理解や同意できなくても「しること」はできるでしょう。
ネヘミヤは自分の犯していない罪を「わたしの父の家も罪をおかしました」と自分の事として悔い改め、いのりました。
それこそが、「同一化して祈る事」です。


ベテル教会の英語のPODCASTの同時通訳:ビル・ジョンソンによるメッセージです。同時通訳:相馬伸子
© Bethel Church, 933 College View Drive, CA 96003 Tel. 530-246-6000 
Interpretation by Nobuko Soma