「愛し合う等しい関係の共同体:教会、エクレシア」



前回は、「教会の欠かせない3つの柱」についてシェアしましたが、
今日は、その柱の一つを、もう少し深く見てましょう:父なる神の家族
「愛し合う等しい関係の共同体:教会、エクレシア」です。

共同体をまず定義しましょう:2−3人でも、教会ですよ!
私は、日曜日出勤のために、普通の日曜礼拝のある教会には行っていませんが、1週間中に、色々な形で、人と集まり、賛美し、御言葉を分かち合い、祈り合い、助け合いのときを持っています。
2人でできることは多い。インターネット、スカイプで話し合い、祈り合うこともできます。
職場では、休憩の時に、同じ職場で働いている人と一緒に、2人だけで、礼拝の時間を設けています。
家で、または、家族でも、夫婦、親子、兄弟姉妹、友人関係でも、イエスの御名によって集まれれば、教会、エクレシアを経験することはできます。

私たちも、公民館で、賛美の集まり、主のご臨在をもてなす時を持っています。
もちろん、大勢の人と集まることも、何人もの奏楽者が集まって賛美をガンガンできる時も、気持ちいいですね。

しかし、一人の賛美も、同じように天に届いています。
2人、3人ででも賛美する時は、素晴らしいです。期待して、一緒に賛美しましょう。

神様は、変わりません!
なので、一人の時でも、2人、3人ででも、少人数でも、巨大な会場で、何千人で集まっても、神様の素晴らしさを味わうこと、楽しむこと、また神様に触れられることも期待しましょう。

では、本当の教会、エクレシアのためのビジョンは、見えますか?
もしかしたら、教会生活によって、傷ついて、「理想的な教会生活が存在しない」と思っている方もいるかもしれません。

人間によって傷ついて、教会の共同体から離れた人が、たくさんおられます。
日本だけではなく、今週アメリカの教会の記事を読んだら、こんなびっくりする統計がありました:

キリスト教の背景のあるアメリカの話ですよ:
「教会に行くのが大切だ」と信じる30歳以下の人は、歴史上最も低い数字、20%だそうです。
小さい頃、教会に通っていた22歳~35歳の人の6割が教会に行くのを辞めているそうです。
22歳~35歳のアメリカ人の35%は、教会は、有害無益だと思っているそうです。

アメリカの残念な話です。
イエス様が教えられた「エクレシア」は、今現在、本当に存在しているのでしょうか?
イエス様が命じられた通りの生き方って、本当に可能なのでしょうか?
もちろん!存在しています。
ただ、もしかしたら、私たちが思っている形と違う形かもしれません。
今までの形しかない、と思ってしまっては残念です。
そして、アメリカでも、日本でも、新しい教会・エクレシアの形を模索する時が来たのではないでしょうか?

イエス様の言葉を見てみましょう:
「わたしは… わたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません。」マタイ 16:18
「ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。」マタイ 18:20
「わたしは、あなたがたがわたしの名によって求めることは何でも、それをしましょう。父が子によって栄光をお受けになるためです。」ヨハネ 14:13
「わたしは彼らの中でわたしの喜びが全うされるために、世にあってこれらのことを話しているのです。」ヨハネ 17:13
「もし互いの間に愛があるなら、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。」ヨハネ 13:35
ここで、皆さんに少しチャレンジがあります:
今までの歩みの中で、教会、また兄弟姉妹による傷、また、恨みなどがあれば、それをまず、イエス様に委ねてくださいますか?

よかったら、ぜひ、今、一緒に祈りましょう。
「イエス様、あなたが教えてくださった、輝くエクレシア・教会の存在を信じます。
今、もし誤った教会観、また、教会関係で受けた違和感、傷、恨み、失望などがあれば、それを全てあなたに委ねます。どうぞ、思いを変えることができるように、助けてください。あなたが計画している輝く花嫁となれることを信じます。」

では、愛し合う等しい関係の共同体、エクレシアの特徴を見て行きましょう。

三つの特徴は:フリー、フラット、オープン
欠かせない特徴です。

1. フリー 自由
教会に集うのは、義務であってはなりません。強制されるのでなく、イエス様を信じて、エクレシアにつながるのは、招待です。
どうぞ、来てください。

本当の愛が存在するために、自由が必要です。
なので、自由で選択したからではなく、義務によって集まるクリスチャンの間には、愛が存在するのは難しいです。
もちろん、義務で始まっても、しばらくしたら、本当の愛によってエクレシアを育むようになるケースも多くあります。
また、神様への愛のために、集まることも素晴らしいです。
しかし、「せねばならない」で、集まる人は、なかなか愛が育ちません。
集まるのは、自由です。自由に、イエス様を信じて、全てを明け渡して、
そして、イエス様の御声に聞き従い、自由に、エクレシア・教会の共同体の中で、関係を育みます。

2. フラット、平ら
封建的社会の日本の中には、これは一番難しいことかもしれませんが、教会・エクレシアの関係は、フラットであるべきです。
かしらは一人:イエス様だけです。
「あなたがたは先生と呼ばれてはいけません。あなたがたの教師はただひとりしかなく、あなたがたはみな兄弟姉妹だからです。」マタイ 23:8 
では、リーダーって何ですか?
前回言いました:
霊的な父親、母親もいます。聖徒たちを整えるための賜物のある人:使徒、預言者、伝道者、教師、牧師もいます。
また、教会の管理のための長老や執事もいます。

しかし、その全てを覆い、全てに勝るのは、互いに愛し合うこと、委ね合うこと。
つまり、会社や軍隊のような封建的な形ではなく、家族です。

この例は分かりやすい:
先生と生徒の関係と、親子関係を考えてください。
理想的に言いますと、先生も生徒の親のようになる役目ですが、残念ながら、多くの先生は、自分が生徒の上にいることによって、自分の価値、アイデンティティを確立し、そのため生徒を支配したり、おどしたりします。

イエス様の言葉を改めて見て見ましょう:
「私は私の教会を建てます。」
イエス様の教会ですね。私たちのものじゃないです。
イエス様がペテロに言われました:
「私の羊を養いなさい。」
3. オープン 心をひらいて
三つめの特徴:オープン
エクレシア・教会の共同体は、皆のために、一番安全で、自分の弱さや失敗などを話し合い、祈り合い、また支え合う場になるはずです。
攻められることなく、裁かれることのない共同体。
拒絶したり、されることもなく、受け入れ合う仲間。

と同時に、促し合う共同体です。
互いにチャレンジし合う共同体。
罪を我慢したり、無視したりするのではなく、その罪を脱ぎ捨てて、一緒に回復と解放の道を歩むよう、助け合う共同体。

こういう質問を考えてください:
・自分よりも、信頼できる友がいますか?
・自分の一番ひどい失敗と罪をオープンにシェアできる仲間はいますか?
・自分の弱さを出しても、決して拒否されない家族がいますか?

もちろん、このような共同体、相手との関係を育むのは、時間がかかります。
また、どんな共同体でも、ぶつかることがあります。
いや、実は、共同体の絆が強くなればなるほど、ぶつかり合うことは、増えると思います。
しかし、「愛する友だちに傷つけられることは、信頼できる。」箴言 27:6

逃げることなく、隠すことなく、向き合い、話し合い、赦し合い、愛し合うことによって、成長します。
エペソ 4:
2 謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに忍び合い、
3 平和のきずなで結ばれて御霊の一致を熱心に保ちなさい。
13 私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。
14 それは、私たちがもはや、子どもではなくて、人の悪巧みや、人を欺く悪賢い策略により、
教えの風に吹き回されたり、波にもてあそばれたりすることがなく、
15 むしろ、愛をもって真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達することができるためなのです。
16 キリストによって、からだ全体は、一つ一つの部分がその力量にふさわしく働く力により、また、備えられたあらゆる結び目によって、しっかりと組み合わされ、結び合わされ、成長して、愛のうちに建てられるのです。
既に、こういう共同体を経験している人ですか?
・アーメン、もっともっとイエス様の愛と力の中に留まり、成長し、また拡大、増殖するように祈りましょう。

一部、こういう共同体を経験している人ですか?
・感謝です!既にできていることを感謝しながら、前向きで、要らないことを脱ぎ捨てて、今から更に信頼関係を深めていってください。

全然、こういう共同体を経験していない人ですか?
・御言葉を信じて、自分の影響の与えれる関係に、徐々にオープン、フラット、そしてフリーの関係を築いていってください。

祈りましょう!

「教会の欠かせない3つの柱」“The Three Essential Pillars of Church/Ekklesia”





先週、「一人の信仰生活」の動画を見た人からいい質問が届きました:

「聖書を読むうえで私たちが神様について知らなければならないこととは、どのようなものでしょうか。」

キリスト教と聞きますと、いろいろな概念が思い浮かびます。教会の礼拝に行くこと、聖書を読むこと、学ぶこと、祈ること、献金すること、伝道すること、一杯あります。

しかし、多くの人は、教会で当たり前に行っている事の中に、何が大事なことか、何がしきたりか混乱してしまいます。

その中である人は、一極端に走り、教会のすべてのしきたりを、何も考えずそのまま素直に受け入れます。

その一方で、ある人は、逆にそれらに反発し、そのすべてを拒否してしまいます。

すべてを受け入れる人は、時々人間の作った習慣を神様の言葉よりも、大事にしています。

逆の人は、自分の信仰生活のため、また御国がこの地上に来るための大きな力も、気付かずに捨ててしまう時もあります。

やっぱり、どちらも、極端で、少し危ないですね。

今日は、とてもシンプルにします。
信仰生活は、意外に簡単です。

まず、信仰生活を定義しましょう。
信仰生活は、神様との結婚みたいなものです。

「私たちが神様について知らなければならないこと」という最初の質問についてですが、まず、聖書の「知る」と言う言葉の本来の原語を考えてみましょう。

「知る」の原語は、「経験を通して知る」という意味を含んでいます。つまり、頭で知るだけでなく、実際に経験することが目的ですね。

一つの例で説明します。ある人の自伝を読み、その人の人生について情報を集めて知る事は、その人と実際に出会い、友達となって、一緒に時間を過ごして、その人を知る事とは全然違いますよね。

その人の自伝を読めば、ある程度その人についての知識を得る事は出来ますが、実際に会って、友達となり、その人を知る事とは比べるものになりませんね。

同じように、聖書を読めば読むほど、賢くなって、神様についての知識は増えるかもしれませんが、必ずしも神様のことを「知っている」とは言えません。

啓示、つまり、神様が直接私たちの思いや心を開いてくださなかったら、いくら聖書を読んでも、勉強しても、素晴らしい説教や教えを聞いても、主を知り、悟ることはできません。

では、どうすればいいでしょう?

実際に、神様の御前に全てを明け渡して、その愛、救い、恵を浴びて、賛美、感謝、喜びを返すことですね。毎日です!

人生は、神様の愛を知る、愛を経験する旅、結婚みたいですね。

興味があれば、「愛の旅」のシリーズを見てください。ゆっくり神様の愛に留まる習慣を身につけてください!

(Youtube: https://www.youtube.com/playlist?list=PLMZViWaFQ6vO7Bd4ZSbKxjixEoYbqLwln )

でも、続けてこう言う質問も問われると思います:
「信仰生活の中、どうやって、清い信仰を保ち、脱線しないようにできますか?一人で、また少人数で、信仰生活をすれば、道をそれたり、変なことを信じるようにならないでしょうか?」
いい質問です!

ここでは、教会の必要な要素を細かく見ることはできません。

しかし、今日から少しずつ、本来の教会、エクレシアについて、イエス様、パウロ、ヤコブ、ヨハネなどが解いた、エクレシアの一番大事な要素を見てみましょう。

「教会・エクレシアの欠かせない3つの要素」が見えます。

3つの柱を考えてください。
・御言葉、イエス様、
・聖霊様
・父なる神様の家族、共同体

この3つの柱がちゃんと機能するなら、屋根を建てる事ができます。しかし、一つの柱でも欠けたり、他より短いなら、その屋根は、一方に傾いてしまう、または、屋根が完全に倒れます。

同じように、健康的な信仰生活、また教会生活のためには、この3つのバランスが欠かせないことです。

まず、一つ目の柱、御言葉イエス様について。
すべての聖書のことばは、イエス様との出会いへの招きです。
「あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思うので、
聖書を調べています。
その聖書が、わたしについて証言しているのです。
それなのに、あなたがたは、いのちを得るために
わたしのもとに来ようとはしません。」ヨハネ 5:39-40
パリサイ人は、生ける御言葉イエス様よりも、聖書を大事にしました。彼らは、「聖書崇拝者」でした。聖書が偶像になってしまったのです。

みなさん、永遠の命は、この書籍を読んだり勉強したりすることからくるのではなく、この本が指し示している生ける御言葉イエス様から来ます。

と同時に、イエス様の御声を聞くためには、聖書を読み、理解する必要があります。
「そのように、信仰は聞くことから始まり、聞くことは、
キリストについてのみことばによるのです。」ローマ 10:17 
「キリストの言葉から来るのである。」(口語訳)
生ける御言葉とは、書かれた文字「ロゴス」ではなく、イエスの口から出る息、「レーマ」です。

沢山読んでも、少しだけ読んでも、聖書を読む時は、生ける御言葉、イエス様の声に耳を傾けています。

二つ目の柱、聖霊様について。
教会の共同体がちゃんと機能するためには、聖霊様の存在、影響は欠かせないものです。
聖霊様は神様ご自身です。
聖霊様のひらめき、啓示がなければ、いくらこの聖書を読んでも、理解することはできません。
「助け主、すなわち、父がわたしの名によって
お遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、
また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを
思い起こさせてくださいます。」ヨハネ 14:26
聖霊様がうちに住んでおられ、また私たちの間に住まわれます。
「このキリストにあって、あなたがたもともに建てられ、
御霊によって神の御住まいとなるのです。」エペソ 2:22 
そして、教会・エクレシアの大事な、大事な 3つ目の柱は、父なる神の家族が本当の愛の絆に結ばれて、従い合う、支え合う、教えあうことです。

よく見過ごされている柱ですね。

パウロは、エペソ 1:18 で、
「聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか、」エペソ 1:18
を理解することができるように、祈っています。
キリストの体は一つ、頭は一つ、御霊は一つ、お父様も一人です。
兄弟姉妹が一致すると、素晴らしい祝福があります。
ただの仲良しクラブではありません!
ただの、教会の1会員ではありません。
「私たちはからだの一部分として互いにそれぞれのものだからです。」エペソ 4:25
一千人の教会のメンバーでも、現在一人で信仰生活をしている人でも、イエス様の体の一部分です。

また、その体として機能するためには、特別の組織が必要なのではありません。
必要なのは、二つだけです:
互いに愛し合うこと。キリストが私たちを愛したように、私たちも互いに愛し合うことです。(ヨハネ 13:34)
そして、二つ目は、
「キリストを恐れ尊んで、互いに従いなさい。」エペソ 5:21
日本語の聖書は「従い合う」、また時々「仕え合うこと」と書いてありますが、
原語は、自分を相手に委ねること、自分を相手の下に置く、委ね合うという意味もあります。
これこそ、愛し合うことの一面ですね。

しかし、覚えてください:「互いに」という言葉の意味。
教会の組織にではなく、一方的に一人のリーダーにではなく、「互いに」です。

教会は封建的な、ピラミッドのリーダーシップ構造ではなく、家族です。
確かに、霊的な父親、母親、兄弟姉妹、霊的な子供もいます。
聖徒たちを整えるための賜物も必要です。
教会の管理のための長老や執事もいます。

しかし、その全てを覆い、全てに勝るのは、互いに愛し合うすること、委ね合うこと。
「これらすべての上に、愛を着けなさい。
愛は結びの帯として完全なものです。」コロサイ 3:14 
私の知り合いは、北インドの開拓伝道に用いられて、ここ30年間の間、10万以上の教会を開拓し、600万人以上の人が信じて、イエス様の弟子となるのを導いてきました。

彼らが、この3つの柱を強調して、教えてきた30年間で、一回も異端が起こったり、変な教えが残ったことはないそうです。

イエス様が約束して下ったように:
もし、私たちが生きる御言葉、イエス様に留まり、聖霊様を歓迎して、愛し合う、委ね合う、従い合う共同体の中に、弟子を作るなら、イエス様が、ご自分の教会・エクレシアを建ててくださいます。
「わたしは… わたしの教会を建てます。
ハデスの門もそれには打ち勝てません。」マタイ 16:18

「キリストにある自由」グラハム・クック

グラハム・クック

 ローマ6章「4節 私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。11節 このようにあなたがたも、自分の罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい。」
 私たちは現在から過去にむかって見ることもできるし、あるいは現在から未来に向かって見る力もあることを神は知っておられます。「現在から過去へ」という生き方は、過去に起こった事が現在の自分にもまだ影響を与えているということです。しかし十字架はこの「現在から過去へ」という生き方から私たちを解き放ち、「現在から未来へ」というライフスタイルを可能にしてくれるのです。
 それは十字架、即ち福音は私たちの「現在」を「神にある現在」に変えてくれるからです。「今の自分はすべて完成したわけではありませんが、完成に向かっているところです、今現在、私はすばらしい、そしてだんだんイエスに似ることによってもっとすばらしくなるのです」というのが現在から未来にむかって生きるライフスタイルの考え方です。
 まず1番目の鍵は、神から見て古いあなたは死んだことです。2番目の鍵は、ローマ6:6ですが、「私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。」です。あなたの古い人は清めることができないほど堕落しているので十字架につけて殺すしかないのです。イエスは「あなたのために死んだdied for you」だけではなく、「あなたとして死んだ died as
you」なのです。ですからイエスが死んだ時、あなたも死んだのです。これは喩えとか象徴的な言葉ではなく、御父の心の中ではまさにそれが事実として起こったのです。御父がイエスが死ぬのを見たとき、神は私たちすべての者が十字架についているのを見られたのです。イエスが死んだとき、私たちもまた死にました。イエスが葬られたとき、私たちも葬られました。そしてイエスが死からよみがえられたとき、私たちも主と共に死からよみがえったのです。

黙示録13:8に「世の初めからほふられた子羊 the Lamb slain from the foundation of the world」という言葉があります。この意味は創世記!:1以前に天で次にような会話があったことを想像させます。最初のコミュにティーであった父、子、御霊が話しあって、自分たちに似せて人を造ろう、愛と平和と喜び、親切に満ち、自分たちのように楽しく笑うにしよう、と決めました。そして彼らとの交わりはすばらしものになるだろうと喜びました。次の日にまた話を続けて、「これらの人々はみな、自由意志を持っていなければならない、ロボットやクローン人間では本当に愛し合うことはできない、自由意志でわたしたちを選んでもらいたい。しかし自由意志でわたしたちを選ばない人たちはどうすればよいだろうか、わたしたちの存在さえも否定する人たちはどうすればいいだろうか、自分たちで宗教を造り上げてそれが本当の生き方だと言ったらどうしようか、そのような人がわたしたちと交わりを持つようにするにはどうすればいいだろうか。」
 そして最後にイエスが天のすべてのものを捨てて人として地に来て、罪の生け贄となることに決めました。イエスの贖いによってすべての人類は購われたのです。
次の会合で、実際にどのような過程で人々を変えていけばよいのかが話合われました。「古い生き方から新しい神にある生き方に人を変えるにはどうすればよいのか」を考え始めました。そしてそれが大変な仕事であることに気がついたのです。御父とイエスは聖霊にその仕事を引き受けてもらおうとしましたが、聖霊は「それはとてつもなく大変な仕事です。人々が良くなるように変えるなんて。3歩進んで2歩さがったり、2歩進んだかと思ったら5歩さがったり、、、。駄目ですね。とてもできません。考え直したほうがいいと思います。」そこでまた話合いました。
 そして御父が「人を良くしようとするのではなく、殺してしまって、新しく生まれ変わらせたらどうだろう。イエスが十字架で死ぬときに彼ら全員を十字架につけたらどうだろうか。イエスは彼らとして死に、彼らはイエスと共に死ぬようにして、イエスが葬られたるとき彼らも葬られ、イエスがよみがえるときに彼らもよみがえるようにして、それを『もう一度生まれる Born again』と呼ぼう。そのためにバプテスマという儀式をして人を水につけ、水から上がるときは新しい人となっていることにしよう。そして新しい人に本当の生き方を教えよう。イエスが彼らを死なせ、地獄に行ったときに彼らの罪を全部そこに置いてきて、新しい形でよみがえったとき、彼らはすべてイエスに似たよみがえりの姿となり、その時彼らは新しいものとなる。古い彼らはすでに死んでいる。彼らがもう罪に死んでいて新しい命に生きていると考えることを許可しよう。聖霊には『新しい人』を教える仕事をしてもらう。彼らが生まれ変わったときにイエスが彼らの中に入り、彼らはイエスの中に留まり、イエスに似た者となるように聖霊が彼らを教えることにしよう。」

御子と聖霊もそれはすばらしいと賛成しました。そして聖書を彼らに与えてよい聖句を教えました。
ガラテヤ2:20「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」

 ですからもはや古い自分は死んでいなくなり、「新しい私」だけが生きているのです。古い自分がしていた生き方をすべて捨てて、全く新しい者として生きる生き方を学ぶのです。物の見方を変え、話し方を変え、行動を変えてイエスと全く同じ生き方を学ぶのです。そして「現在から未来へ」の人となるのです。

 ローマ6章には神が私たちのためにすでにしてくださっていることが確信をもって書かれています。
「自分に死ぬ」というのは私たちがすることではなく、イエスがしてくださったことです。「自分に死ぬ」ということはイエスのうちにあることの当然の結果です。私は神に生きているとき、自動的に罪に死んでいるのです。私が「新しい人」に生きるとき、「古い人」は死んだままになっています。ですから私たちの目標は単に「死んだふりをする」のではなく、「死にっぱなしになる」ことです。「自分はもはや罪に死んでいる」と考えることを神はあなたに許可されています。神が私をキリストにあって十字架につけられ殺したのであれば、私はもう自分を殺すことはできません。私はすでに死んだのですから、そのまま死んでいればいいーそれが私の仕事です。

神は私たちの古い人に関しての神の観点、神の思いの中に踏み込むことを許可してくださり、私たちが「キリストにあってどのような者であるか」の焦点をあてて生きるようにしてくださいます。即ち、自分は自分が考えるような者ではなく、自分とは、「神が私をどのような者であると考えておられる」その者であるということです。私はキリストにあって新しい人であり、すべて古いものは過ぎ去り、私はキリストにあって新しい者となった。(それ以外の考え方はないのです)
ローマ6:11にある「自分は罪に対しては死んだ者であるように思いなさい。」とは、神がすでにされたことを注意深く考えて、それが真実であると信じるということです。あなたは神があなたに関して信じているように自分を信じていますか?神があなたに「あなたは罪に対しては死んだ者と思っていい。」という、とてつもない許可を与えてくださったのですから,私たちは神と同じように考えてよいのです。
 そうすると神にはどのようなことが要求されるのでしょうか。聖書に書かれたこの事実に対して神はどのように対応されるのでしょうか。神は言葉にも行ないにも真実な方です。私たちがどのような者であるかに関して神には二心がないことを私たちは知らねばなりません。神は「あなたは死んでいる」と言われ、あなたが死ぬのを目撃されたのです。あなたのネガティブなものはすべて一切、十字架上のイエスに負わせたのです。イエスが死んだとき、あなたも死にました。ローマ6:10に「キリストが死なれたのはただ一度罪に対して死なれたのです。」とあります。一度ですべての(once for all) 罪は処理されたのです。ですからイエスはもう一度死ぬ必要は全くありません。そして神はあなたの罪に対してもう新たに何もする必要はないのです。神はもはやあなたの罪を気にも留めておられません。その代わりに義をあなたにもたらそうとしておられます。あなたの罪に焦点を当てるのではなく、あなたの聖さに焦点をあてておられます。あなたは罪に死んでいるので、義を求める自由があるのです。そして神はあなたに聖霊を与えて、聖くなる方法を教えてくださっています。聖霊が焦点を合わせているのは、キリストにある新しい人です。(くどいようですが、)ローマ6:6にあるように罪のからだは滅びてもうないのです。
ポイントは御父がイエスの贖いを100%信頼しているか、ということです。もし神が未だにあなたの人生の罪をどうにかしようとしておられるならば、それはイエスの贖いの業に確信を持っておられないということになります。もし神が未だにあなたの罪を取り扱っておられるならば、神はあなたを墓の中から生き返らせて古いあなたに戻していることになり、神は墓泥棒ということになります。御父がイエスの贖いの効果を100%信じて認めてないなどと考える人がいるでしょうか。ですから、もし私たちがまだ自分の罪を(うじうじと)取り扱っているとすれば、私たちがイエスの生け贄を信頼していないということであり、御父は分裂症だとみなすことになります。私たちのしていることは、御父とイエスがそのような方であると言っているようなものです。なぜならば、イエスは一度で完全に罪に死なれたのであり、私たちの罪は無くなったのです。神がまだ私たちの罪を取り扱っておられるならば、私たちは新しく造られたものではないということになります。しかし、聖書はそのようには教えていません。私たちは死んで、そのまま死んだままになっていて、新しい命に生きているのです。

神が私たちに「古いあなたは死んだと思ってもよろしい。」という許可を与えてくださっているのは、神も同じ真理のもとで行動しておられるということです。神の結論は、「自分の息子はすべての人類の罪をただ一度完全に背負って死んだのであり、だからあなたの罪は死に、あなたは神のいのちに生きている」ということです。即ち神があなたを御覧になるときは、あなたの中に一つも罪、間違いを見つけられないのです。あなたの中のすべての罪、間違いは、十字架上のイエスの上に置かれ、イエスは地獄に行ったときにそれらをすべて地獄に投げ捨ててきました。ですからあなたに関するすべて否定的なもの(罪、否定的な考え、否定的な感情、悲観的な考え等々)は、イエスの内に死んだのです。そうだとすれば、神があなたを見たときは、何が見えるのでしょうか。神があなたをイエスの内に置かれたのならば、「イエスの内にあるあなた」であり、また「あなたがこれからなろうとしている姿」です。これは逆説的なことですが、あなたは生きるために死んだのです。あなたは死んでいるけれどもイエスにあって完全に生きているのです。
ですからあなたは自分の言動を変えて新しい人になることはできません。イエスの内にある「既になった人」を発見して、その人のように行動するのです。もし私たちはただ自分の言動を変えようと頑張るのであれば、イエスは死ぬ必要は無かったのです。神はあなたを変えるのではなく、全く違うものに一変させたいーのです。そのやり方は「あなたのすべての悪いものを、すべて処理しました。あなたはキリストにある全く新しい人になりました。あなたがその人になる方法をわたしが教えてあげます。」と神は言われているのです。神があなたを見たとき、何も悪いところは見えません。ただあなたが今神を経験するときに欠けているところを見て、それを必ず与えると決意されたのです。ですから聖霊があなたの人生で巧くいっていない場所を指差されるときは、即ち、次に起こる奇跡の場所を指し示されているのです。責めも恥もありません。聖霊はうれしそうに来られて、その場所を指差されて、「さあ、次はここにしましょう。あなたのためにその場所にすばらしいことを用意していますよ。」と言われるのです。そしてギフトをもってこられます。その場所であなたが苦労するのではないのです。もうそこのあなたは死んでいるからです。ただ(既に死んで亡くなった古い部品のあとに)新しい部品に取り替える(入れてくださる)のです。あなたに何かを頑張ってほしいとは言われません。(信仰でそのように生きるのです)

エペソ4:21−24「ただし、ほんとうにあなたがたがキリストに聞き、キリストにあって教えられているのならばです。まさしく真理はイエスにあるのですから。その教えとは、あなたがたの以前の生活について言うならば、人を欺く情欲によって滅びて行く古い人を脱ぎ捨てるべきこと、またあなたがたが心の霊において新しくされ、真理に基づく義と聖をもって神にかたどり造り出された、新しい人を身に着るべきでした。」
「古い人をよくしようと努力しなさい」とはどこにも書いてありません。「脱ぎ捨てなさい」と言われています。神があなたを見ておられるように自分を見て、神と共に働くのです。神は「わたしたち(神とあなた)は古い人を改良する仕事をしてはいませんよ。それは死んでいるのですから。もうあなたの名が書かれた墓石の下に埋まっているので、そのままにしておきなさい。こちらに「キリストにある新しいあなた」がいるーこれが本当のあなたです。わたしたちはこちらのあなた造ることに取りかかっています。新しい人を身につけて救いの達成にはげみなさい。」

女性の方が少し古いドレスを持っておられるとします。15年前に買ったものですが、まだぴったりでとても素敵なドレスです。あなたはずっとそのオーソドックなドレスが好きでした。するとある人が新しいデザインのすばらしいドレスをあなたにくれたとします。着てみるとご主人も見とれるようでした。さて、あなたは古い方のドレスと新しいドレスとどちらを選べばよいのか迷います。でも決まっていますね。あなたはあなたをびっくりするほどすばらしく見せる新しいドレスを選ぶのです。これが福音です。
男性の方に言います。あなたは20年前に買った車に乗っています。もう古くなり、車体にも傷やへっこみがあります。エンジンもスムーズには動きません。中も変な臭いが染み付いていて、恥ずかしいような車です。するとある人がフェラリを買ってくれます。真っ赤で格好がいいのです。あなたが家から出てくるとこの2台の車が停まっています。あなたはどうしますか。あなたはお金を払って、古い車を引き取ってもらうことでしょう。しばらくは新しい車のそばにたって道を通るひとに自慢することでしょう。運転するとスムーズで今までとは違って楽しい気分になります。あなたは違う乗り物に乗っているからです。「キリストの内にある」というのは、そういうことです。あなたは違う車に乗って、違う気分で今まで行ったことのない場所に行くのです。

イエスは罪のために十分に裁かれたと思いますか?もし十分でないのならば、ここにいる人で救われている人はいません。すべての裁きがイエスに負わされたのでなければ、私たちは決して自由になることはできませんし、救われることもないのです。御父はすべての罪への怒り、憤りの最後の一滴までイエスの上に注がれたと思いますか?そうならば、御父のうちにはもう何に対する憤りもないのであって当然です。ということは神はもう何に関しても怒ってはおられません。これは本当によく考えてみないといけないことですね。神がもし「もしもの時のために」怒りを少しでもとっておかれたとしたら、私たちと神との関係は100%確立しているとはいえません。御父はイエスをご自分から切りはなされ、すべての罪を負わされたのです。イエスは私たちのために滅ぼされたのです。イエスは始めて御父から切り離されました。それは私たちがもはや御父から切り離されることがないためです。私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを切り離すものは何もないのです。


古いものはすべて過ぎ去り、すべてが新しくなりました。私たちは古いものを改良するのではなくて、古いドレスや古い車のように捨てて、新しい栄光に満ちたものが来たのを見るのです。私たちは古いものから新しいものに移り変わるプロセスの中にいますが、取り扱うのは新しいものだけです。あなたが新しい人に焦点を合わせ、すべての状況はあなたが新しくなるために設けられたものだと知るのです。あなたがある状況の中に置かれたとき、今の自分はこれであり、将来の自分はこれであると見えるのです。それが「現在から未来へ」という生き方です。神は私がどのような者になるか、将来の私を知っておられます。ですから現在の自分から未来の自分との間に起こることはすべて私を将来の私にするために設けられるのであって、それは神によって予め決められている計画です。

 ですから何であれ、一つの状況とか環境(たとえ逆境のように思えても)に足を踏み入れた時には、それはまず第一に新しいあなたに関することなのです。私たちはその状況を神に不満として訴えるのではなくて、まず自分自身を神に捧げるのです。その状況はキリストにあるあなたがアップグレイドされるためのものです。ですからすべての状況はアイデンティティーに関することです。すべての状況、環境、困難、問題は、あなたがキリストに似た者となるためのもであるのです。
 私たちは神のもとに行き、この状況は神と私の関係において、どのような意味があるのですか、と問わねばなりません。これは私のアイデンティティーに関してどのような意味があるのですか、と。ですから問題が起こったときは、「ああ、私のアイデンティティーはアップグレイドされるんだ!」と思うのです。
 それがまず第一にすることです。「主よ、この問題の中であなたが私のためにどのような新しいお方になってくださるのか。今まで私が経験したことに中ではわからなかったあなたを教えてください。」と聞くのです。そのように考えるとあなたの前に状況、問題は全く違って見えてくるはずです。もしアイデンティティーのアップグレイドを目指さないならば、自動的にあなたは以前の古い人のアイデンティティーに戻るのです。そして不安になったりパニックに陥ったりします。それは過去の自分に戻り「現在から過去へという生き方」に戻ってしますのです。

学校の実験で一番好きだったのは、鉄くずをまいた紙の上に磁石を持ってくると、鉄くずが全部磁石に吸い付けられるというのがありました。
そのように「天のすべては私の中のイエスに吸い付けられている」のです。それはどういう意味でしょうか。これは新しいいのちの特権であり、それは神の祝福は私のうちにおられるイエスの故に私に吸い寄せられるということです。神の特別な恩顧、恵みはイエスの故に私に吸い寄せられます。私の中にイエスがおられるので私は祝福、特別の恵み、力を吸い寄せる磁石です。自分の故ではなく、イエスの故にです。御父は私たちをそのように驚くべきところに置いてくださいました。重要なのは、あなたが「自分は死んでいる」ことを本当に、本当に、分かることです。神は古いあなたのことを話したくもなく、取り扱いたくない、あなたとそれに関する会話もしたくないのです。あなたはそれに関して祈る必要もない、あなたはキリストにある新しい自分のことだけを考えればいいのです。
あなたにとって「全く新しくなる」とはどういうことかー今の瞬間からあなたの人生のすべてが新しくなるー神はあなたの中の新しいあなただけを取り扱われるーのです。私たちは「宗教」の中で古い自分で神との関係を築いて変っていこうとして来ました。罪悪感、自分は駄目だという思い、日によって神から離されていると感じたりします。私たちはいつも何かを謝ったり悔い改めたりしているのです。何かを悔い改めるならば、神は「もうそれは終ったよ」と言われるのです。悔い改めるならば、何かから悔い改めるのではなく、何かにむかって悔い改めてください。「神よ、私はキリストのようになる機会を与えられましたのに、それを用いませんでした。赦してください。」というようにです。古い自分を悔い改めるのではなく、新しい自分の姿に対して悔い改めるのです。

神があなたを見るときには、何も悪いところがないのです。神のところに行ったときの会話はすべて新しい人に関する話なのです。神は「あなたの古い人とはもう縁を切った。」と言われます。(終り)


坂 達也・柚実子訳 http://www.banministries.org/?p=2953
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