ブラザー・ローレンスから学ぶもの ー 主の臨在と共に暮らす習慣を身につける Learning from Brother Lawrence

坂 達也 

 昨夜、リック・ジョイナー師のサイトで彼が書いているブラザー・ローレンスの紹介記事を読んで、久し振りに私が最初にブラザー・ローレンスの珠玉のような本に接した頃を思い出しました。ブラザー・ローレンスについて、多くの方は既によくご存知とは思いますが、先ずは、ジョイナー師が書いている彼の略歴をご紹介します。

 「ブラザー・ローレンスは1614年にフランスで生まれました。貧しい環境で育った彼は軍隊に入らざるを得なくなりました。そして戦地でのある冬の寒い日、葉が落ちて裸になった木を見ているうちに、彼は著しい救いの体験をしたのです。彼はその時、葉が落ちて死んでいるような木と同じ状態にある自分を感じながらも、神が彼のために生きる希望を用意しておられるのを感じ始めていました。すると突然、神の誠実さと愛が彼のたましいに洪水のように溢れました。彼はその経験は、どこにでもある自分の目の前の現実に、突如として超自然としか思えないような「明晰な思い」が飛び込んで来た、と言いました。
 戦地で負傷したローレンスは、除隊後にパリにある修道院で働き始めました。教育を受けていない彼は、そこで調理場の下働きという最もありふれた下等の仕事に就きました。そこで彼は、人生で苦難の道を歩まねば神の恵みにはあずかれないという当時の宗教社会の通念に影響され、人生の失敗者である自分は、世の中の下積みの苦労をしなければならないと思い込んでいたからです。
 しかし彼が経験した超自然的な「明晰な啓示」を通して、いつしか彼は、どんなつまらない仕事をしていても、そこに主の栄光を見つけて主をひたすら礼拝することにこそ、主の御国で約束されている最も平安と喜びに満ちた生き方の一つがあることを発見したのです。
 しかし「継続的な神の臨在」を経験するに至る迄には、彼は非常に困難で長期に渡る、徒労で報われない献身の毎日を通らねばなりませんでした。しかしその努力が報われる日が遂にやって来たのです。彼はどのようなつまらない仕事をしていても、それに神聖さを見つけ、神に栄光を返すどんな王よりも楽しい毎日を過ごせるようになりました。
 そのような彼の平安と喜びに満ちた人生の生き様が、多くの人たちを惹き付け始めました。彼の死後(1691)に、彼が書いた多くの書簡からまとめたものをビューフォーのヨセフと呼ばれる一人の神父が編纂し、それが The Practice of the Presence of God として後日出版されるに至り、以降この本が多くの人に読まれるようになったのです。」

 以上の略歴を紹介した後、ジョイナー師はブラザー・ローレンスの経験した貴重な知恵の幾つかに触れておりますので、私はその内の二、三をご紹介したいと思います。
 最初にブラザー・ローレンスが云った言葉としてーこれは特に有名な言葉ですがー彼は数人の人が調理場で戦争のように忙しく立ち働いている環境に自分がいる時であっても、それは彼が静かに主の前にひざまずいて祈っている時と全く変わらずに、同じであると言っていることです。その理由を彼は、自分が神をしっかり保有し、あるいは神に保有されているからであると言います。ここで彼は possess という言葉を使っており、その意味は「完全に神に所有されている状態」を指しています。
 これこそ主キリストと私たちの関係ー主が私たちの内におられ、私たちも完全に主の内にいる状態ーすなわち、「私たちは完全に主の持ち物」であることを表していないでしょうか。私たちは聖書にそう書かれていますから、そのことを理屈では分かっていても、それが現実にそうなれるという事実をブラザー・ローレンスが証明してくれているのです。

 次に彼が云っていることは「主の臨在を感じない、主が隠れておられるような『乾いた状態』にいる時にこそ、私たちは主に対して真に忠実であることを学ぶことが出来るーそのような時にこそ主は私たちの主への愛をテストされ、又私たちが主に対してどれ程の堅い決意 determination をするか、あるいは、主にどこ迄自分を明け渡すこと surrender が出来るかを試すよい機会となる。」と云っています。
 又主は、「私たちが主のためにどんなよい仕事をしたかーそれはその仕事の大きさではなく、むしろどれ程愛をもってその仕事をしたかーということに関心を持たれる。」とも云っています。

 最後に「主といつも語り合う習慣を身につけるためには、自分が常に神のご臨在と共にいるかどうかを気遣っていることが絶対に必要である。」と彼は主張して止みません。そして、彼が主の助けを必要な時、彼は必ず主にお願いします。彼の経験では、神が助けて下さらなかったことは一度もなかったと言います。

 昔オレゴンの教会にいた時に、希望する人には全員にこのブラザー・ローレンスの The Practice of the Presence of God という小冊子を教会が無料で配布したことを私は憶えています。クリスチャンにとってこの本は、それ程重要な手引書の一つであって、私たちは、少なくとも一年に一度位は読み返すと大変恵まれる必読書であると思います。

 実は私は今朝思い立って自分がどういう人間であるのかを確認する思いで、ロマ書6:3-6を読んでみました。
「3それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにつくバプテズマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテズマを受けたのではありませんか。4私たちは、キリストの死にあずかるバプテズマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。5もし私たちがキリストにつぎ合わされて、キリストとの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです。6私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。7死んでしまった者は、罪から解放されているのです。もし私たちがキリストとともに死んだのであれば、キリストとともに生きることにもなる、と信じます。9キリストは死者の中からよみがえって、もはや死ぬことはなく、死はもはやキリストを支配しないことを、私たちは知っています。10なぜなら、キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、キリストが生きておられるのは、神に対して生きておられるのだからです。11このように、あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい。」

 私たちはキリストを信じてバプテズマを受けた時、新しく「霊の人間」に生まれ変わったことを本当にいつも自覚して生活しているでしょうか。それを忘れて、いつまでも肉のままの人間で生きてはいないでしょうか。

 ブラザー・ローレンスは、そのことを私にいつも改めて思い出させてくれる人です。(終り)

「なぜ私が神にそこまで必死じゃないのか」グラハム・クック  Why I Am Not Desperate for God - Graham Cooke


友人のスティーブの家を訪問した時のことです。当時スティーブには4歳と6歳の娘がいました。彼が電話に出るために退室している間、6歳の子が4歳の子に「明日は教会に行くのよ。」と伝えているのを耳にしました。

4歳の子は全くあわてずこう言いました:「私達は教会に行かないの、私達が教会なんだから。私達はもう御国にいるのよ。」

すると6歳の子は「御国ってなに?」と尋ねました。

「御国は天国がこの地上でおさめているところよ」と4歳の子が言いました。

こういう時に、「子供」版の聖霊などいないことが分ります。使徒に語りかける聖霊と同じ聖霊が4歳の女の子にも語りかけられるのです。

4歳の子でも理解しているのです。御国から教会が出てくること、そして教会は御国におさめられていることを。

私達の中にも誤解している人がいます。彼らは御国が、教会から出てくるものとして見ています。この見方なら、教会が正しく機能していれば、時々、御国が現われるかもしれません。神も時々現われ、教会に立ち寄られることでもない限りは、また姿を消されるのです。

しかしイエスにとって、神は時々「現れる」存在ではありません。私達にとっても同じです。神は私達の内に生きておられるのです。私達はキリストの内にあり、キリストは私達の内におられるのです。

『訪ずれる文化』と『住まれる文化』の違いです。

旧約は神が訪問される文化でした。特定の働きのために神は人々のもとに訪れました。イスラエルは神の訪問を体験しました。神は彼らが悔い改め、考えを変えた後に来られましたが、暗い時代や、罪や偶像礼拝によって彼らは神から離れることが可能でした。イスラエルは神と、ヨーヨーのような関係でした。上がったり下がったり、入ったり出たり。人々の行動を基にした一時的な関係です。

イエスは私達を固定概念から解放して下さいます。イエスは新しいことを行うために来られました。いま私達は神が私達の内に住まれる文化に生きています。なぜなら私達はさらに良い約束と正真正銘の神の臨在が土台である、新しい契約へと生まれ変わったのです。

私達はイエスの生前には地上で決して見ることがなかった新しい被造物です。多くのクリスチャンや教会は旧約聖書のアプローチから神との関係を学ぼうとします。しかし今、全ての古いものは過ぎ去り、全てのものが新しくなりました。

生まれ変わった新しい人生はまったく新しく違う契約から始まります。私達の内におられるキリストは今までにない期待を与えてくださいます:永遠の臨在。この臨在に入るために私達がせねばならないことは、何もありません。これは贈り物です。

しかし、この場所にとどまるために、絶対にせねばならないことがあります。それは「主の中に留まる」と呼ばれるものです。けっして去らない神が住んでいる現実の中に住み、のこり、とどまり続けることを学ぶことが主の中に留まることの全てです。

このことを本当に理解しないなら、残念ながら悲しい結果が待っています。あなたは「訪ずれる文化」と同じ行動をし始めます。自分でミニストリーを作り、「神が来てくださるのを見たい」とか「神に現れてくださるよう必死になりましょう」の様なことを言い始めます。

「神に必死」と言う彼らが何を言いたいか分かりますが、同意は出来ません。人は、本当に貰えるか分からないときに必死になります。砂漠にいる人々は水を必死に求めます。孤独な人は関係を求めて必死です。

神に必死になっている人は、神が何をしてくださったか、本当は理解していないのです。彼らは神が自分達にとってどんなお方なのかあまり分かっていません。もはや訪ずれる文化に生きていないことが掴めていないのです。彼らは既に聖霊なる神の住まわれる場所なのにです。

私は遠くにおられる神に必死なのではありません。神の中で楽しむことで手が一杯なのです。

自分は神の住まいであると理解する時に、神との歩みについての見方が根本的に変えられます。実際に主を探し求め始めます。

私は神を追いかけません。なぜなら神は私から逃げ去らないからです。一緒におられます…「わたしはいつもあなたと共にいます。」

私が主の中に留まることを実践するとき、神の臨在をもてなすことを学んでいます。楽しんで、頼って、相談し、信じて私への愛を一杯体験するために。神を慕い求めることが「全てのものが新しくなった」ことの一つです。どうやっていつもそこにいる人を慕い求めるのでしょう?私達は期待と興奮で慕い求めることを学んでいます。これは与えられたのです。神は私の人生の中に、私の状況に、関係に、ここにおられます。もし私がキリストの中にいるなら、その状況もキリストの中にあると言うことです!

聖書の「主を求めよ」とは、本当はどんな状況の中でも立ち止まって見わたして、その状況の中のどこに神がおられるか探してみよ、と言う意味です。神の臨在から来るものを探し求めましょう。すなわち知恵、好意、祝福そして力です。

これは神を見つけよ、と言うことではありません。神は行方不明ではありません。もちろん私達も。主の臨在の中の人生は互いにさらに素晴らしい方法で影響し合うと言うことです。神と共にいることを学ぶのが私達は大好きです。私達は神の愛の守りの中で成長し、神が自分を喜びとして下さることを味わいます。神が私たちの中におられるように、私達がキリストの中に住み、とどまることを学ぶ時に、素晴らしい自信が生まれます。

だから今日、関わりましょう。神があなたと深く関わられるのと同じように:必死にではなく、招待に応えて。

このように祈ってみて下さい。
「神よありがとうございます。いつも私と共にいていてくださることを感謝します。私をイエス様の中において下さり、満ち足りた人生に招待して下さってありがとうございます。毎日ここで会ってくださってありがとうございます。今日、あなたが私を見るのと同じように自分自身を見れるように助けて下さい。あなたが見るのと同じ方法で、ほかの人々を見ることを私にも教えて下さい。あなたの臨在をもてなすことを教えて下さい。そうすればどんな状況でもあなたを見つけることができますから。あなたがすでにそこにいて、待っていて下さることを知るために私の信仰をアップグレードして下さい。」

グラハム・クック

“Why I’m Not Desperate for God” Blog article by Graham Cooke: http://www.brilliantperspectives.com/why-im-not-desperate-for-god/
翻訳:細見マリヤ、リンスコット綾

「やり直しではなく、向き直し!」 Renew or Re-do?



今日の御言葉は、有名な箇所です:
「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」2コリント 5:17
簡単ですね。
すべてが新しくなりました!
しかし、この言葉:「新しい」の解釈によって、意味が大きく変わります。
新約聖書のギリシア語の「新しい」は、二つの言葉ががあり、その違いが大きいです!

1つは、「ネオス」
例えば、イエス様が「新しいぶどう酒」(マタイ9:17)を言った時に、この「ネオス」を使われました。(動画の中で、「新しい革袋」を言いましたが、間違いでした。)
時間的に、新しいという意味です。

ここ10年間、トヨタカローラを運転して、昨日事故して、ダメになったので、今日は、新しいトヨタカローラを買いました。
嬉しい!
しかし、形も質も変わっていません。車です。車輪、4つ、エンジン、1つ、座席、5つ、新しくなったけど、本当は、前と一緒です。でも、新しい車で、嬉しいですね?
次の10年間をこの新しい車でやり直します。

多くのクリスチャンは、この「ネオス」にとどまり、いつもやり直しを求めます。
昨日、頑張って、悪いことしないようにつとめましたが、やっぱり失敗しました。
しかし、悔い改めて、神様に赦しをいただいて、今日は、新しい!毎朝新しい!
そうです。今日は、やり直し。また、頑張って、失敗しないように、罪を犯さないように、がんばりましょう。

みなさん、これは、福音ではありません!
これを見ると、以前の質、以前の形と何にも変わりません。

パウロが、2コリント5:17
「古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」

この新しいは、違う言葉です:「カイノス」です。
ただ、やり直し、古いものを捨てて、新しく同じ物をいただくのではありません!
カイノスは、形も、質も、完全に新しい物となる。
前と全然違う見たことのない物となる。
すべてが新しい。

以前のトヨタカローラを捨てて、わたしは、スペースシャトルをいただきました!
やったことのないことができる。
行ったことのない所に行ける。
前と全く違う形になり、すべてが新しくなりました。

パウロが、このただ「やり直し」の連鎖、悪循環について、ローマ7章に書いています。
(ローマ7:14-24)
多くのクリスチャンは、ローマ7章が、現在、キリストにある人の経験だと信じています。
有名な神学者でそう信じる人もいます!
しかし、こういう考え方は、5−6世紀から始まった神学であり、初代教会ではそう考えなかったし、多くの神学者でもそう考えません。
ローマ7章は、キリストと出会う前に、罪の性質がまだ生きている時の状態です。

新約聖書の流れ全体を見ると、これは明らかですが、2コリント5:17が一番明確ですね。
もう一度言います:
「古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」
以上です。

皆さん、
「だれも、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり… するからです。」マタイ 6:24 
罪の性質に仕えながら、イエス様の性質に仕えることはできません。
イエス様と結婚しているなら、どうして「罪と死の律法」であるあの死んだ愛人に戻りますか?

やり直しの信仰によって生きるクリスチャンは、本当は、自分の行いに頼る律法によって生きています。
キリストによってすべてが新しくなったことを理解せずに、自分の罪の意識によって生きています。
もちろん、神様は、愛溢れるお父さんなので、続けてあなたを愛し、導いてくださいますよ。
「やり直し」のクリスチャンとして生きていきたいなら、毎朝、昨日の失敗と罪のために、神様の赦しを求めて、今日も、やり直し、失敗しないように、罪を犯さないように、頑張って下さいね。
それを選ぶのもあなたの自由です。神様はあなたのことを怒りません。拒絶することも絶対にありません。
しかし、神様は、キリストにあるあなたの新しいアイデンティティーを知り、その中に生きるように、招いておられます。

もちろん、新しいアイデンティティーに生きるクリスチャンでも、罪を選ぶことが可能です。神様にある目的や使命を忘れて、罪、目的を外れた行動、思い、言葉使いを選ぶこともできます。また、その当然の結果、報いを経験してしまいます。

しかし、その時に、イエス様に向きを直して、赦しと聖めとをいただいて、感謝してもいいです。
その意味では、やり直しのようなことですが、本当は、やり直しではなく、向き直しです。

イエス様に、向き直し、
キリストにあって、すべてが新しくされたアイデンティティーに向き直し、
父なる神様の愛に向き直し、
罪の性質ではなく、私のうちにあるキリストの性質に向き直すことです。

なかなか止められない罪、どうすればいいでしょうか?

まず、自分の本当のアイデンティティーを知ってください!
「心の一新によって、自分を変えなさい。」ローマ12:2
兄弟姉妹が大きな鍵です:友人、仲間と一緒に祈って見てください。
聖霊様の導きによって、示された嘘、束縛、過去の罪などをイエス様に委ね、手放しましょう。

必要なら、SOZOミニストリー( http://sozo.onfire.jp/ )、エリヤハウスのミニストリー( http://www.ehj.jp/ )、他の心の解放のミニストリーを調べてみてください。

カウンセリングもいいですが、気をつけてください。
多くのカンセリングは、「やり直し」の姿勢から、人を導きます。
人は、カウンセリングによって、悪循環か逆戻りになるケースが、少なくありません。

イエス様が既に、十字架の上で、あなたの罪の性質を殺して、完全に処分してくださいました!
古い自分が過ぎ去り、今、あなたは、キリストにあって、全く新しい者となりました。
毎日、イエス様の素晴しさを更に知ること、感謝すること、経験することはできます。

The “Everything has become new” of 2 Cor 5:17 is a marvellous word!
However, our interpretation and understanding of the word “new” can greatly affect our experience of this newness!

Let’s look at the two words in the Greek used for “new” in the NT, and gain a new perspective of what an amazing thing God has done for us in Christ. (Japanese message)