「私たちの信仰の唯一の義務」




日本の社会では、義務を果たす事をとても大切にします。
子供は、小さい頃から、他人に対しての義理や、また社会に対する義務や責任を果たす事について教えられます。
多くの人は、クリスチャンになる時も、更に神様にも果たすべき多くの義務があると感じます。

しかし、この順番が大切です。まず、キリストにある自由を経験しなければなりません。
義理や義務、責任から自由となった経験ですね。
信仰生活において果たすべき責任とは、神様に与えられた自由意志によって、自分で選択して始まるものです。

あなたはキリストにあって自由なのです!
ヨハネ 8:36「もし子があなたがたを自由にするなら、あなたがたはほんとうに自由なのです。」
2コリント 3:17「主の御霊のあるところには自由があります。」

また、コリントの第一の手紙で、パウロはこのビックリする言葉を強調しています:

1コリント 6:12「すべてのことが私には許されたことです。しかし、すべてが益になるわけではありません。私にはすべてのことが許されています。しかし、私はどんなことにも支配されはしません。」
1コリント 10:23「すべてのことは、してもよいのです。しかし、すべてのことが徳を高めるとはかぎりません。」
後ほど、キリストの体に対する責任と約束・誓約について考えたいと思いますが、今日はまず自由について考えましょう。

さて、「義務」について聖書には何が書いてありますか?
実は、信仰の生活には、一つの義務しかありません!

その言葉を見てみましょう。
ローマ 13:8「だれに対しても、何の借りもあってはいけません。ただし、互いに愛し合うことについては別です。」
この「借り」の言葉は、「義務」または「責任」の意味があります。
「互いに愛し合うこと」は私たちキリストにある者の唯一の義務です。
また、本当の愛を経験するために、愛を与えるためには、自由意志が必要です。

また、ローマ8章の中、パウロは、罪の性質によって歩むことではなく、聖霊によって歩むことについて話します。
英語の聖書からの意訳ですが:
ローマ 8:12「私たちは、借りがあるけど、それは肉(罪の性質)に従って歩む借りではありません。」
罪の性質によって生きるのではなく、聖霊によって歩む責任、義務があります。

実は、この二つの言葉は一緒です。
互いに愛し合うことは、聖霊によって以外にはできないことです。イエシュアの愛が聖霊によって既に私たちの中に存在しています。
その愛を感謝すること、その愛に浸ることが信仰生活の土台です。

聖霊によって生きる人は、まずその愛に留まり、その愛によって互いに愛し合うことができるようになります。

あなたと私にある聖霊様は、互いに愛したいと願っておられます。
聖霊にあって、愛し合うことは、ごく自然です。天のお父さんの性質は、愛です。
愛し合うことは、当然です。
私たちが人を愛さないときは、聖霊らしくない性質を抱いています。不自然です。
居心地が悪くなります。

聖霊にあって、私たちの唯一の義務は、愛し合うことです!

では、具体的にこの唯一の義務を果たす信仰生活はどのように見えますか?

少しびっくりすることも言いますが、皆さんが自分で、祈りながら、聖書を読んでこの言葉を吟味してください。

まず、私たちには祈る、聖書を読む、断食する義務はありません。
あなたは、キリストの中に置かれ、キリストに属しています。今から死ぬまで、祈らず、聖書を読まず、断食もしなくても、あなたを、キリストから引き離はなすものはありません。

あなたの祈り、聖書を読むこと、断食を通して、更に神様に近づくことはできません。
神様は、常に、あなたのすぐ側におられます。
また、この様なことをしないからといって、神様から離れることもできません。
神様の愛は、私達の行いによって左右されたりはしません。

信仰生活は、本当に結婚みたいですね。
実は、人間の結婚は神様との結合の「この世での現れ」です。

結婚しているからといって、素晴らしい夫婦関係があるとは、ぜったい限りません!
例えば、結婚して、同じ家に住んでも、別々の生活をして、ほとんど会話をしないまま、一緒に時間を過ごさないままであれば、互いに知り合うことはできません。二人の関係を楽しむことはできません。成長することもできません。
しかし、結婚の誓約はまだなり立っています!

結婚生活の中で、毎日更に「楽しむ」、更に関係を深めるよう招待されているのです。
その招待に応答するかどうかは、私たち次第です。
しかし、その招待を無視して、ただ結婚している事実だけで満足するなら、結婚の素晴らしさを本当の意味で体験する事は出来ません。結婚している事実は変わりませんが、結婚の祝福をもらいそびれてしまいます。

神様との信仰生活も似ています。

私たちは、キリストにあって、神様と不思議に結びつけられました。
花婿のキリストは、花嫁の私たちを常にこの結婚関係をもっと理解し、深く経験すること、そして楽しむように招いておられます。

その招待を受ける義務はありません!これは招待です。

では、私たちはどうして祈ったり、聖書を読んだり、断食したりしますか?
その神様との不思議な結婚・結合をもっと理解すること、経験すること、また楽しむためにするのです。

神様は、私たちが義務を通して祈ること、聖書を読むこと、断食をすることを望んではおられません!
キリストにあって、神様との不思議な結合を更に強めようと努力する行動は、自分の行動に焦点がいってしまい、宗教の霊にしばられてしまいます。

人間の結婚と同じように、神様との不思議な結合は、事実です。キリストにあって十字架で成し遂げられて、すでに成立したことです。

祈り、神様との会話、神様の声に毎日耳を傾けて、一日中神様とのおしゃべりの中で、更に理解すること、経験すること、楽しむことはできます。
聖書の言葉を読んで、思いを留め、歌って、暗唱する事、宣言することを通して、生きている言葉キリストと交わること、また更に理解すること、経験すること、楽しむことはできます。
断食することによって、自分の体の要求を横に置いて、頭もすっきりとして、物理的な世界が邪魔しないようにして、神様との交わりを経験し、神様の御心と自分の心を合わせる特別の時間を持つのは素晴らしいことです。

でも、祈りや、聖書の朗読、断食を、更に神様に近づく手段として、更に愛してもらうためにするのではありません。

結婚している夫婦のように、夫婦関係をほっといたからといって、夫婦関係が解消されることはありません。
しかし、毎日の決断の中で、夫婦関係の素晴らしさを更に理解すること、経験すること、もっともっと楽しむことはできます!

皆さんの上に、祈りたいと思います。
人間が作った、義務観から解放されますように。
神様との不思議な結合の中で、あなたは、どれほど自由であるかを知る事が出来ますように。
既にキリストに結びつけられ、天のところに座っていることを、もっと理解すること、経験すること、また毎日楽しむことができますように。
祈る義務ではなく、聖書を読む義務ではなく、断食する義務ではなく、
聖霊様の導きによって、神様との会話の中に、もっともっと祈ること、聖書を読むこと、御声を聞くこと、また断食することを楽しむことができますように。
キリストにある自由、喜びを奪って、宗教の霊の束縛を背負わせようとするサタンの戦略を断ち切ります!
キリストにある自由と喜びがあふれますように!

次回は、
続けて、私たちの唯一の義務、互いに愛し合うことは、教会生活、他のクリスチャンとの交わり、また未信者との交わりの中で、どのように見えるか、少し見てみましょう。