「実現可能な夢」グラハム・クック Dream the Possible Dream - Graham Cooke

私たちは今新年を迎えようとしておりますが、それは新しい12ヶ月間への私たちの夢をもう一度考えてみる良い機会です。その際、幾つかの事を心に留めようではありませんか。
この世は、出来る限りすべてのもの、すべての事に、制限や限界を設けることを大変好みます。
私たちは「この夢はどうせ実現しないだろう」と自分に言い聞かせるように馴らされています。それはコンピューターのデフォルト設定(あらかじめ組み込まれた設定)のようなものです。私たちは小さい時から、「うまく行かない事もある」、「実現しないこともある」、「絶対不可能なこともある」、と言い聞かされてきました。周りの人達から限界を押しつけられました。その人達も周りの人達からそうされてきたのです。そしてそれらの限界は自分自身の考えだとして受け入れるように馴らされてしまっています。
自分で選んだスピード制限ほど自分に一番適した制限はありません。そしてそのような制限するというような否定的な思いは伝染するので、周りの人々の中にある同じような否定的な思いを増幅させてしまいます。それは、自分も同じような影響を他の人から受けてきたようにです。
この世で「それは現実的で、リアリスティックな線だ」と言うとき、実際はもっと可能性があっても、それに否定的な可能性を付加したり、保守的な考えと云う障害物を置いて(それは現実的ではないという)制限をつけてしまった考えであるのです。「夢の仕事」や「あこがれのライフスタイル」を勝ち取るなどと考えてあらぬ努力をすることは、全く(可能性の)希望はない無理なことと思うべきであり、「もっと幸福な人生」を送ろうと思えばその考えを是正すべきだと考えてしまうのです。しかし、「もっと幸福な」と言う言葉は実のところ、他の人たちが通ってきたと同じ道を歩くことに満足して「高望みとか無理をせず、人並みで平均的な」人生を送るということです。

いずれ人の通る道とはそのようにして作られていきます。幾人かが同じところを踏みながら歩いていくと、それが小道になり、やがて道路となり、そして6車線もの高速道路となります。これが、この世が持つ私たちが辿るべき人生の考え方なのです。
「信じる者にはどんなことで可能である。」と主はいわれました。ここで
「できる、可能である possible」という言葉はすばらしものですが、悲しい事に、実用主義者のふりをした悲観主義者が世界中でそれを否定的に用いてしまっています。原語であるラテン語「possibilis」は、「それは実現可能なこと」という意味で、力、能力、許容能力などを示しています。即ち「達成する、出来うる力」です。
1500年の原語の進化を経て、原語が認識できないほどに変化してしまう言葉もありますが、この言葉に関してはこの言葉に含まれている「希望」という概念が取り去られただけです。現在「可能であるpossible 」という言葉は、あきらめや疑いという意味合いを持って用いられます。大抵は「それはやっぱり無理だった。It just wasn’t possible.」とか「本当にそんなこと出来るの? Is it really possible?」のように否定的に使われるのです。そして「それは絶対不可能だ。That’s impossible.」という決定的な台詞があり、私たちはそれを何に関しても、誰に対しても発するのです。
私たちはそのように馴らされているのですが、それは大変悲しいことです。というのは、「それは可能である」と宣言する元々の本当の意味は、「それは出来る」と宣言することだからです。何かが可能であると決断すると、私たちは力を受けます。「はい、出来ます!」と私たちが言うとき、私たちがどのような人間かを表します。それは霊を高揚させます。自分の霊だけではなく、周りの人の霊もです。誰かがあなたに向かって「はい、出来ます!」と言ったとき、あなたは自然に笑みをうかべて「すばらしい!」と言うでしょう。
それはとてもよいことであり、私たちを力づけ、周りの人たちをも喜ばせることです。しかしそれ以上に、あなたが今まで出来ないと思っていたことを「やっぱり出来る!」と決断したとき程あなたに力を与えることは他に何も、絶対に何も、ありません。世界で一番すばらしい気持になることの一つです。子どもの頃から馴らされていた否定的な考えのスイッチを切り、不可能なことを可能であると宣言するのです。
神はこのことをずっと私たちに告げておられます。
ルカ1:37
「神にとって不可能なことは一つもありません。」
ピリピ4:13
「私は私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。」
マタイ17:20
「まことにあなたがたに告げます。もし、からし種ほどの信仰があったら、この山に、『ここからあそこに移れ.』と言えば移るのです。どんなことでも、あなたがたにできないことはありません。」
しかし、キリストが最も決定的にそれを語っておられるのはマルコ10章です。信心深い富んだ若者がイエスのもとに来て永遠のいのちを得るためには何をせねばならないかと訊ねました。イエスは彼はすべてを正しく行っているが、今はすべての地上の持ち物を人に与えてイエスに従うようにと言われました。勿論若者は貧しい生活や、すべてを与えるということは考えられなかったので、悲しみながら、豊かなままで去って行きました。イエスは弟子たちに「裕福な者が神の国にはいることは、何と難しいことでしょう。」と言われて、弟子たちを又もや仰天させたのです。

当時主流だった教えは、「人生で富を蓄えるのは神から祝福されているしるしだ」というものだったからです。ですから富んだ者は貧しい者よりも天国に入る可能性が高いということです。(今でも多くの金持ちが貧乏人にこの考え方を押しつけています。)しかしキリストはそれとは違うことを話されました。即ち、自分の功績で天国に入る権利を勝ち取ることはできないと説明したのです。御国に入る道をお金で買うことはできないのです。
弟子たちが「それでは誰が救われることができるのですか?」と聞いたとき、イエスは「それは人にはできないことですが、神は、そうではありません。どんなことでも、神にはできるのです。」と言われました。

可能性の力はキリストによる神からの贈りものです。

神は私たちをキリストの内に入れて、私たちが恵みの中で生きることができるようにしてくださいました。そこはすばらしい恩恵を伴った場所であり、そこにおいてはすべてに手が届き、すべてを達成することが出来るのです。
すべて可能なのです。神が何かを約束してくださるとき、私たちは理論から想像の領域へと解き放たれます。その場所で私たちはただ座って「できるだろうか」「本当に達成できる確立はどのくらいだろうか」「今まで何人が試して失敗してきたのだろうか」などと、くよくよ心配しなくていいのです。そこでは「できるだろうか?」と聞くことはもう出来ないのです。

そのかわりに、私たちは「出来ます!」と言うべきです。私たちは問題を越えてその先にある約束の成就を見つめます。なぜならば、天の父からの約束は結果が保証されていて、私たちを自由と実現に向かって歩く力を与えてくれるからです。神が私たちの「不可能さ」の状態をこよなく愛される理由はそこにあります。神は私たちが行き詰まった時や絶望した時に、介入して私たちに約束をくださることが本当にうれしくてたまらないのです。私たちを不信仰に陥らせようとするような厳しい状況の中で、主はご自分の臨在を告げられるのです。それまでは考えられなかったことが想像できるまでになった時に私たちが感じる喜びを、御父はその千倍ほども感じられるのです。
ペンテコステの日に、神は聖霊の傾注により、人々が預言や幻や夢を通して神の御国に入ることを可能にされました。それは歴史上大きな変化の時でした。御子の誕生によって始められた新しい契約の締めくくりの出来事であり、キリストの内にある新しいリアリティーが現されたのです。
それはペテロがその日示したように、数世紀前に預言者ヨエルにされた約束の成就でした。ヨエル2:28-30
「その後、わたしは、わたしの霊をすべての人に注ぐ。あなたがたの息子や娘は預言し、年寄りは夢を見、若い男は幻を見る。その日、わたしは、しもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。わたしは天と地に、不思議なしるしを現わす。」
教会が誕生した時に与えられた預言の賜物や、幻や夢は(それと同じ賜物によって私たちも肉なるものを通り越して超自然へと到達することができるのですが)それ自体が約束の成就だったのです。

心を尽くして主に信頼し、自分の不完全な悟りに頼らないという信仰の原則を、私たちは預言によって生きることができます。あなたのいのちの中の御霊からの約束や預言は、神があなたに何をしてくださるかを語るでしょう。それらの言葉はあなたの人生の可能性を次の領域へと引きあげ、神の臨在を力強く感じるために必要な力を持っています。

神の約束とその約束に含まれている保証された結果にあなたの焦点を当ててください。そしてそこから大いなる力を得てください。不可能なものはないのです。2016年は、あなたの実現可能な夢を夢見てください。

(終り)

日本語訳の記事:http://www.banministries.org/?p=2718