「神様の怒りはイエス様に注がれなかった」十字架の勘違い3



説教で、これをを聞いたことがあるでしょうか?
                         
十字架につけられたイエス様に、神様の怒りが注がれ、イエス様は死なれ、神様の怒りをなだめました。
神様が、私たちの代わりに、イエス様を罰せられました。
結構有名な賛美歌でも、このメッセージを伝えています。
しかし、これも、大きな勘違いがあります。

その勘違いの原因は、いろいろありますが、一つはイザヤ書の救い主に対する言葉53章の御言葉です。

イザヤ 53:4「まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。」

ここで注意しないといけないことは、この御言葉は人間の視野から書いています。

「私たちは思った。」と書いています。誰が思ったのでしょう??人が思っただけのことです。

神様の本質をちゃんと理解しないと、イエス様が神様に罰せられている、神様に打たれていると思ってしまうのです。
人間の目、人の知恵に偏っています。
           

今でも、多くの人は、クリスチャンでさえ、人が苦しんだり、病気になったり、災いにあったり、自然災害などが起これば、神様の怒りがその原因だと信じています。
英語では、自然災害を 「Act of God」つまり「神の業」と呼ばれるときもあります。
神様の怒りがイエス様の十字架、また人間の苦しみと繋がっていることは、西洋の文化に浸み込んでいます。

神様が私たちの代わりにイエス様を罰せられました。
このことを信じるクリスチャンの多くは、神様の本質に疑問を抱きます。
愛のある天のお父さんがは、どうして自分の子供を殺すのでしょうか?
神様が私を愛しておられると信じます。
じゃあ、私もイエス様と同じように、神様に罰せられるかも知れません。

この不幸、この病気、この経済的な危機は、もしかしたら、神様からの罰です。

口にしなくても、人間社会の中によくあることので、密かに信じてしまうことです。

神様の御性質に対する疑いにつながっているのです。
十字架のことを正しく理解しなければ、神様の愛を正しく理解することも難しくなります。
1ヨハネ 4:18「愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。なぜなら恐れには刑罰が伴っているからです。恐れる者の愛は、全きものとなっていないのです。」
全き者となるために、神様の愛をいただいて、理解する必要があります。

はっきり言いましょう:
天のお父さんは、ご自分の御子キリストを殺したのではなく、ご自分の御子をお与えになられました。
御子キリストも、ご自分をお捨てになりました。
1テモテ 2:6「キリストは、すべての人の贖いの代価として、ご自身をお与えになりました。」
では、神様の怒りによってイエス様が殺されなかったのなら、なぜ死なれたのでしょうか?

これまでに、パリサイ人と宗教者は、何回もイエス様を殺そうとしました。しかし、毎回それを回避することができました。
定められた「時」ではなかったからです。

ヨハネ 5:18 イエス様は、三十八年間も、病気にかかっている人を安息日に癒されたので、「ユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうとするようになった。」

ヨハネ 8:58-59 イエス様はパリサイ人に「アブラハムが生まれる前から、わたしはいるのです。」と言われたので、彼らは石を取ってイエスに投げつけようとしました。しかし、イエスは身を隠して、宮から出て行かれました。」と書いてあります。
また、ヨハネ  10:30も、同じように「イエス様は、『わたしと父とは一つです。』と言われ、ユダヤ人たちは、イエスを石打ちにしようとして、また石を取り上げた。」と書いてあります。
マタイ 12章:
イエス様は、片手のなえた人を安息日に癒されて、「パリサイ人は出て行って、どのようにしてイエスを滅ぼそうかと相談しました。」
                                                     
ルカ 4章:イエス様はご自分の育ったナザレに行って、安息日に会堂に入り、イザヤ書を朗読しました。そして、異邦人も救われることを御言葉を通して示したら、ユダヤ人が怒り、「イエスを丘のがけのふちまで連れて行き、そこから投げ落とそうとしました。しかし、イエスは、彼らの真ん中を通り抜けて、行ってしまわれました。」

そして、イエス様は、ついに自分を罪人の手に委ねました。
ルカ 24:7「人の子は必ず罪人らの手に引き渡され、十字架につけられ、三日目によみがえらなければならない、と言われたでしょう。」

そうです。イエス様は、神様の怒りによって死なれたのではなく、人間、罪人の怒りによって死なれました。
しかし、その罪人は誰ですか?

その当時は、もちろん、ユダヤ教の宗教者、ローマ人の兵士たちでしたが、本当は、あなたと私です。
罪深い私たちが、キリストを殺しました。私たちのそむきの罪、私たちの反抗、私たちの憎しみと恨みが、造り主を殺しました。

しかし、それだけではなく、キリストを殺している私たちは、同時にキリストの中にいました。
私たちの手によって、死なれたイエス様は、同時に私たちの代わりに、人の手によって死なれました。

私たちを完全に同情できる友人がいます。

それは人の拒絶、誤解、憎しみ、恨みを全部、受けてくださったイエス様。
神様の怒りではなく、人の怒りを私たちのために、受けてくださいました。
神様の裁きから私たちを守られたのではなく、人間の怒りや裁きから、今でも守ってくださっています。

私たちとして死なれたイエス様は、私たちとしてよみがえられました!

キリストは、十字架の上で、完全に罪、死、サタンを打ち負かされました。キリストは、十字架によって、完全な勝利者となられました。                        
私たちも、キリストと共に圧倒的な勝利者です!
ローマ 8:37「しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。」

キリストの十字架は、単なる法的な取引ではありませんでした!
裁判官の神様、有罪の犯人の私たち、弁護士のイエス様。
怒っている裁判官が、犯人の代わりに、弁護士にその怒りを下して、判決の結果を裁判官が満足する。
この十字架の冷酷な見方は、本当に不十分です。

違います!
イエス様の十字架は、法的な取引ではなく、最高の愛の証拠です。
私たちも、その最高の十字架の愛のまん中に入れられました。