「神様のために働かないで!」


今日からしばらく「神の業」と「私たちの業」とその違いについて、数回に分けて話したいと思います。

昔から、人間は、目で見えない神様の御心を知りたかったのです。
祈りの中で、断食、自分を卑しくするまで、人は、神様の祝福を得るために、「神様、何をしなければいけませんか!?」と叫び求めました。

今でも、あらゆる宗教が、キリスト教の中でも多くのクリスチャンが、この質問と葛藤しています。
「神様!私に何をして欲しいですか?!」
この質問の裏には、宗教の霊があります。つまり、神様中心の信仰ではなく、自分の行動を中心にする信仰です。
「神様!あなたのために、私は何をすればいいですか?」
私の祈り、私の聖書の勉強、私の信仰、私の理解力、私の献金、私の働き、私の奉仕、私の伝道、私の努力
私が中心です。
私、私、私。。。

イエス様が来られた当時のユダヤ教の人々はこういう宗教の掟によって、パリサイ人と宗教学者にコントロールされて、疲れ切っていました。
こうしなければ神様は喜ばないよ!あのようにしなければと神様に怒られるよ。そうしなければ神様の祝福はないよ。
キリスト教にも、こういう考えがこっそりと入ってきました。今でも、私たちクリスチャンは皆、このように考えるよう誘惑されています。
人中心の信仰。人間の努力中心の歩み。
クリスチャン生活には、努力はいらない、働きは無用、とは言っていませんよ。
ただ、その土台、その基礎を裏付ける理由が全然違います。

イエス様の話を少し見てみましょう。
ヨハネ6章、イエス様は大勢の人を食べさせました。その夜、イエス様は一人になるために、少し山に退かれました。次の日、群衆はイエス様を見つけました。

ヨハネ 6:25 彼らはイエスに言った。「先生。いつここにおいでになりましたか。」26 イエスは答えて言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからです。27 なくなる食物のためではなく、いつまでも保ち、永遠のいのちに至る食物のために働きなさい。それこそ、人の子があなたがたに与えるものです。この人の子を父すなわち神が認証されたからです。」28 すると彼らはイエスに言った。「私たちは、神のわざを行うために、何をすべきでしょうか。」29 イエスは答えて言われた。「あなたがたが、神が遣わした者を信じること、それが神のわざです。」

この物語の解釈はいろいろありますが、今日はこのように考えましょう。

パンの話は、神の業の話と並行しています。
主の祈りの中でも、「日々の糧」は、ただ生きるためのニーズが満たされる意味ではなく、今日のために用意されている神の業、神の御心のことですね。
ヨハネ 4章の中、イエス様は、「わたしを遣わした方のみこころを行い、そのみわざを成し遂げることが、わたしの食物です。」と言われました。食物、パン、日々の糧は、神の御心を行うこと、神のわざです。

ユダヤ人の群衆は、イエス様と弟子たちが配った食物を食べて満腹しました。満足しました。
肉体的に彼らは、「ああ満腹だ!ごちそうさまでした!」と言いましたが、彼らは霊的にも、「あああ、神様の業を果たせた!心に平安がある!」と実感できたと思います。

イエス様が他の宗教者と全然違ったので、彼らはイエス様を一生懸命探してきました。
イエス様は、パンを食べることと、永遠の食物、つまり神の御心を行うことを関連づけてくださいました。なくなる食物のためではなく、永遠に至る食物のために働きなさい、と言われました。
しかし、見てください。
イエス様は、神様のための働きは、イエス様から与えられることだと言われます。自分で働いていただく報酬ではなく、無償でもらえるものです。
その意味を強調するために、この人の子は、神様に認められていますよと言われます。

しかし、ユダヤ人たちは、これほど簡単なことでもいいのだろうか、これだけでいいのか、と確認するために、イエス様に訪ねます。

「私たちは、神のわざを行うために、何をすべきでしょうか。」
私も、皆も一緒ですね!神様、あなたのわざを行うために、どうすればいいですか?と確認のために聞きたいですね。

イエス様は、この一言で、囚われているユダヤ人たちを自由にしました。

「あなたがたが、神が遣わした者を信じること、それが神のわざです。」
イエス様を信じること、それこそ神のわざです!
信じることによって、あなたは満腹になれます。
覚えてください。
このユダヤ人は、いつも神様を喜ばせているか、怒らせているか、本当に心配しています。

その恐れによって、宗教学者は、彼らをコントロールしてきました。
いつも自分の働きが足りないと注目しているなら、ユダヤ人は、パリサイ人、宗教学者の話を聞いて、彼らに名誉を与えて、もっと献金して、もっと生け贄などを買ったりしていくでしょう。

今でも、どんな宗教でも、新興宗教も、この恐れによって人をコントロールします。
残念ながら、キリスト教の教会の中にも、このようなマインドコントロールがあります。
あなたの努力が足りない!
祈りが足りない。聖書の知識が足りない。献金が足りない。
信仰が足りない。
神様に受け入れられるように、もっと頑張りなさい!
この恐れは、本当の神様からのものではありません。
主の声には、愛と平安があります。その愛によって導かれます。愛は、その「足りない」と思わせる恐れを閉め出します。
1ヨハネ 4:18「愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。」
キリストにあって刑罰はもはやないのです。ありません。

皆さんもどうですか?
いつも自分の足りないことに注目していませんか?
いつも自分の働きに目を留めていませんか?
もしかしたら、嘘を信じているかもしれません。

多くの場合、ただイエス様の愛の啓示と真理が足りていないだけですね。
自分が足りないとの思いから解放されるように祈ります!

自分の働き、自分の努力から目を離して、イエス様に目を留めて、イエス様の十字架の働きに目を留めましょう。
自分の足りないことではなく、イエス様の常に満ち足りている恵みに目を留めましょう。

一つ勧めることがあります:
一日でも、一週間でも、一ヶ月でも、神様にお願いすることをしばらくやめてみませんか?
イエス様が既にしてくださったことだけを思い起こして、感謝してみてはどうでしょうか?
特に、自分自身について悩んでいる人にお勧めします。やってみてください。びっくりすると思います。

イエス様の愛の啓示と真理が溢れる一週間を迎えてください!