同時通訳:相馬伸子
ピリピ1:9.10 ヨハネ5:34、41
自分は今までの人生で痛みを感じない、痛みがあっても、その感情をどうやって取り扱うかを知らない男性でした、しかし、去年の7月に起こった出来事によって、転機がきました。その頃は賛美の学校のミニストリーが一つ終わり、しかし賛美のレコード会社の仕事は、繁栄し、同時に沢山のストレスを抱えていた時でした。
急に、心臓が痛み、自分では自分をコントロールするできなくなり、十代の頃に一度解放されたパニックアタックも再発し、ノイローゼになってしまいました。ミニストリーもできなくなり、家で子供の声が大きいと家にはいられなくなり、庭の芝生を見てもパニックアタックになるような非常に苦しい季節になりました。
特にアメリカの男性は「タフ」になり、強くなければならない文化があり、自分の中の痛みに対して「感じる」事をせず、痛みを避けようとします。
自分達は、よくスポーツの試合を見たり、沢山食べたり、それ自体は罪ではない事をすることで「天の父に渡すべき痛み、苦しみ」をこれらで簡単に忘れる、また心のそこに埋めるのです。でも、それは、いつか爆発して、自分のように壊れます。砕けます。
人間は痛みを感じるように作られています。イエス様も痛みを経験し、でもそれを天の父の足もとに委ねたのです。自分たちもそうです。妻によって、ソーゾーの祈りに導かれ、赦していない事に気つかされ、対処できましたが、その痛みが取られた事は感謝です。
イエスは人の賛美は受けない方でした。私達も、人からの賛辞によって高く挙げられるなら、人からの言葉によって低く落とされるでしょう。神様のところから、自信も、資格も、友情も受ける事が私達を長い間信者として歩ませるために必要です。偉大な人たちは、急に偉大になったのではなく、誠実に、真の友情を育て、神の声を聞き、啓示をうけるのです。
イエスは「あなたはなにがほしいのか」と弟子たちに聞きました、それは「あなたは私から何がほしいのか」私を使うためか?それとも友情のため、ただあなたがほしいというのかと 私達に聞いていると思います。私達はテストされます、イエスがただほしいのか、願うのか、それとも、ミニストリーに使うためにイエスを求めるのか?
Original message: Surrendering Pain - Brian Johnson
2016-5-8 Sunday Morning Bethel Church Message
© Bethel Church, 933 College View Drive, CA 96003 Tel. 530-246-6000
Interpretation by Nobuko Soma http://www.onfire.jp
https://www.youtube.com/watch?v=noOdRc14Uos (Brief introduction video. 5分の紹介動画)
http://www.bethel.tv/watch/4006/sunday-night/2016/05/08 (Full message, requires registered account. 登録必要)
So many of us spend our lives trying to avoid pain without realizing that facing the pain head on might be the thing that propels us into our very destiny. The reality of pain in our lives is inevitable, but we have a choice of what to do with it: will we retreat from it, or will we bring it to the Fathers feet, choosing to praise Him even when we don’t understand? Brian Johnson shares his journey through pain, and how the Lord brought him strength and courage for his destiny through his darkest season.